昨日12月8日は真珠湾攻撃から76年目ということで様々なニュースが報道されました。
以下の記事は削除済み
などですが、個人的には8月15日よりもある意味12月8日の方を重要視しています。
と言うのも単純に我が国が「前を向いて戦い始めた日」と「独立を失った日」に分けているからです。
実際には真珠湾攻撃以前から既に戦闘行為は始まっていたので正確には違います。
またアメリカ側としてもこの真珠湾攻撃は暗号解読しており故意に攻撃させたということは事実でしょう。昔からアメリカのやり方は「被害者のフリをし、正義を振りかざして立ち上がるという演出」です。
つまり、少なくとも真珠湾攻撃は「奇襲」ではなかったということだけは歴史的な事実です。
当時の我が国は相手方の術中にハマったのです。
よく「なんで敗ける戦争をしたんだ」、「戦争は避けられた」と聞きますが、後知恵で考えることは既に結果が現実に現れているので好き勝手に言えるのですが、実際にその当時の背景を考えれば致し方ない部分もあったりするのです。
現在の我が国も数十年後に「先人達は何故こんなバカな政策をしたんだ」と未来の日本人、あるいは
”日本民族”に言われるのです。
私達の世代が日本という国家の最後の世代ということにならないように祈るばかりです。
今回の記事では、いつも堅い話題が多いので少し肩の力を抜いて、ゆるい話題の記事を書いてみようと思います。
それでも一般的には堅い話題となるかもしれないので、そこは勘弁していただきたところです。
私はつまらない人間なのです。
勉強になった動画や勇気の出る動画
勇気が出る動画
神風特攻隊 「命の使い方」~日本人として知っておきたいこと~
なんだか動画のまとめサイトみたいになってますが、ショッキングなこともあり、絶望感も味わった動画でもあり、また勇気を奮い立たせる動画でもあります。
かつて私があるトラブルに巻き込まれた時に根拠なく責任を追求され、黙って従うべきか、闘うべきか悩んだ時に勇気の出る動画を見て闘おうという気持ちを奮い立たせたものです。
これらの動画を見ても分かるかもしれませんが、私は現代日本の保守層からも左翼層からも嫌われるようなことをブログで書いています。
私は先人達が命を懸けて現代人に残してくれた日本国を次の世代に出来る限り不備なくバトンタッチすることが現代日本人の未来に対する責任と先人達に対する責任があると考えています。
真剣にそれを考えるとなると、思想のカテゴライズや政党の性格、イメージに固執して物事を判断するのは、全く意味をなさない、むしろ害悪だと思っているからです。
保守層だろうが左翼層だろうが嘘をつきます。
事実を出来る限りフラットに見るには両方とその他が発信する”事実”を見てみなければどこに問題の本質があるかわかりません。
自分の目で見たことですら「真実」とは限らないので、結局悩み続けた上で自分なりに結論を出すということに終始せざるを得ません。
それが嫌だということであれば、勝ち馬に乗っかって追従すれば非常に楽でしょうし、生活も安泰になることでしょう。
しかし、そうやってきたのがこれまでの人類の歴史であるのでもういい加減、真面目に考えなければ本当に未来はないと確信しています。
私は別に手放しで我が国、日本国民が素晴らしいとは言いませんし、逆に、最悪な国とも最低な国民とも思っていません。
ここは最悪、ここは良い、ここは最高、ここは最低と普通に思っているだけです。
私は数年前のメディアの手放しの日本礼賛の風潮が気味が悪いと感じていましたし、更に前の自虐史観の風潮も気持ち悪かったと感じていました。
「こいつらは物事には白か黒しかないと考えているのか」
と。
確かにスタンス、立場という物がありますからどちらかに寄るのはある程度仕方ないとは思いますが、せめて客観的な事実を教えて欲しいと今でも思います。
しかし、先日の記事で書いた通りメディアはメディアの利益になるようにしか報道しません。
日本のマスメディアはカスです。
それははっきり言い切れます。
本当に時々良い番組がありますが、1%ぐらいでしょう。
インターネット、書籍が本当のところの一部を教えてくれます。
あとは、当事者に聞くことが重要かなと考えています。
このブログを書いていても私の知識は非常に少ないと、日々劣等感を感じており、更にインプットしていかなければいけないのですが、知識を吸収することと同時にとても大事にすべきだなと確信していることがあります。
それは「直感」です。
あることが発生した時に直感的に何か違和感を感じることがあります。
その直感は、その事実の報道のされ方とは全く違うのですが、時が経ちその事実の蓋が開けられると、その直感は正しかったんじゃないかということがままあるのです。
理屈で言ったらこれは直感を否定すべきではあるのですが、私は直感を疑い理屈を優先した結果失敗したことが多くあるので、今は素直に直感を信じています。
知識と実践、直感と理屈とは、一般的に対立するものというイメージがあるかとは思いますが、私は全く違う考え方をしています。
実践は知識、理論と照らし合わせることで完成すると言うか、理論や知識というものはそもそも、「実践の一部である」という考え方をしています。
知識と実践というとなんとも二元論に聞こえるものですが、知識を得るという行為は「探求という実践」とも言えるし、探求という実践をしたことで知識、理論が得られるのであれば、「理論は実践ありき」、「実践は理論ありき」とも言えるわけです。
だから、私はこの知識と実践という二元論の風潮に違和感を持っていたこともあり、「知識と実践はひとつである」ということを伝えたくて、ブログタイトルにしたのです。
現代は、ビジネスの論理が社会全体を覆い、知識を「役に立たない机上の空論」といった位置づけをする風潮が存在しています。
現場主義と言えば聞こえは良いですが、現場主義も現場だけで回るわけではないということは誰でも知っているはずです。
そのバランスを欠けば、上下ができ、対立が生まれていきます。
思想の時代は終わったという人もいますが、「思想」、「主義」といったイデオロギーが未だに世界を動かしているということは明白ですし、その特定のイデオロギーが力を持ちすぎているというバランスを欠いた状態なんだと私は世界を観ています。
ロバートギルピンのこの本に書いてあったと思いましたがイデオロギーには概ね以下の3つがあるとのことです。
The Political Economy of International Relations (英語) ペーパーバック – 1987/6/1
「自由主義 政治は中立」
「経済が政治を決めるマルクス主義」
「政治が経済を決める」
世界観とでも言い換えられそうですが、自由主義というのは現在の我が国の多数派が持つイデオロギーでしょう。
市場メカニズムには自動調整機能があり、政治とは切り離せると考えます。つまり政治は中立ということになります。
マルクス主義は唯物史観ですので経済が基盤となり、政治はそれに従属すると考えます。
政治が経済を決めるというのは、経済ナショナリズムということになりますので、マルクス主義と真逆になる「政治が経済を決める」ということになります。
民主主義的なプロセスを通して、政策が決まっていくということですが、民主主義には間接民主主義ということで選挙を通して行なわれますから、投票券を持つものは、「国民」に限定されます。
その国民は民族や宗教、階級に拘らず「国籍」によって投票できるので、民主主義とは国家に属する者が制度を決めるというナショナリズムが前提のイデオロギーだと言えるということです。
だからこそ国籍取得のルールは厳格であるべきだとなるのです。
一度国民になったら元中国人だろうがなんだろうが国民なので、ナショナリズム的には「同一の共同体」と認識します。
以前の記事でも書きましたが、このことから人種差別はナショナリズムの敵になるのです。
同じ国民を民族や階級、宗教などで差別するということは、国民が分断されます。
国民を同じ共同体と認識するナショナリストは、国民がバラバラになることを嫌がる”はず”なのですが、我が国では完全に国民が分断されているような気がしないでもないのです。
それを煽動しているのが、ナショナリスト、保守と自負する連中だから私はそういう連中に嫌悪感を持つのです。
軽めの話題ということで書きましたが、やはり堅めの話題になってしまいました。
私は来年のテーマを”ユーモア”に決定します。
宜しくお願い致します。