最近はデフレ経済についてやたらと書くことが多いですが、あまりにもしつこいと思わないでください。
デフレというものに日本国民が慣れてしまっていることに警鐘を鳴らしたいと思っています。
私のような一コンサルタントが偉そうに申し訳ありませんが、それほどデフレ経済というものは恐ろしく、また大勢の人が苦しみ、場合によっては命をも失う経済環境であることを知っていただきたいのです。
しかし、20年というデフレを継続してしまった我が国は経済成長しないことが当たり前になり、給料が上がらないことが当たり前、公務員を叩くことが当たり前、他業種を叩くことが当たり前と、「国民が国民の足を引っ張る」社会になってしまいました。
これは非常に悲しいことですし、情けないことでもあります。
しかし、デフレが長く続いたせいか、「デフレ容認派」なる人間がいると、それもそれなりの数がいるということに驚愕しているのです。
どこまでも幻滅させてくれる国です。
東日本大震災の時からの1年間と同じくらい絶望しています。
あの時、我が国は「東北を見捨て、震災を無かったことにしたのではないか」と私は認識しています。
でもその年の言葉は「絆」でした。
怒りを通り越して、呆れ果てたのです。
とは言っても、それでも我が国は我が国です。
ネガティブなことばかり言っていても仕方ありません。
負け戦だろうがなんだろうが、正しいと信じていることを言うことが、本来の日本人らしさだと私は理解しているのです。
デフレ容認派の意見
「日本は成熟社会だから欲しいものがそもそもない」
「起業すれば良い」
「物価が安くなって良いじゃないか」
「人件費が上がると大変」
「努力しない人を助けても無駄」
とまあ色々とあります。
デフレ容認派の中には、今までデフレ反対派だった人間もいます。それは単に、政権批判をビジネスとする者でしょう。
デフレ容認派の意見には、一見、御尤もな意見もあるように見えますが、なぜ御尤もに見えるかというと、それは、価値観が基本的に「個人」であるからです。
彼らの意見は、
「自分はデフレ経済の中で成功している。自分ができるんだから他の人だって出来るはず。できないのは努力が足りないからだ」
といったことです。
この意見というのは、裏を返せばこういうことです。
「努力しても結果が出せないのは努力不足であって、それは本人の能力の不足によるものだから自己責任だ」
となります。もっとこの意見を延長すれば、
「自己責任なんだから、勝ち負けははっきりする。負けた人は苦しんで、買った人は豊かになる。」
と社会の「弱肉強食」を推奨しているということになるのです。
弱肉強食なんだから、彼らがこの「弱肉強食」という言葉を使えばもっとわかりやすいはずなのに、なぜ使わないのでしょう?
そこに、彼らの欺瞞があるのです。
”弱肉強食の社会”なんだという言葉を使えば、世の中からは非難されることでしょう。
実際にデフレ経済下では弱肉強食とならざるを得なくなりますが、大衆はそれを良しとしないはずです。
更に、弱肉強食ということは、「戦う」ことが前提となります。
因みに、我が国の義務教育では「戦う」ことを否定していますし、教師も戦うということを教えてはならないと通達があるそうです。
社会は弱肉強食なんだとあえて言わないことで、負け組を多くしておくことが可能となります。
弱肉強食という言葉を使えば大半は非難するでしょうが、中には、勝ち組まで上り詰める人もいるでしょう。
それらの人はそれらで良いのですが、どちらかといえば負け組を多くしておく、有り体に言えば、
「バカのままでいてもらう」ことが、デフレ容認派にとっては都合が良いのです。
なので、1%VS99%という人類史上最大の格差問題が起こっても彼らにとっては別に構わないのです。
アメリカの所得格差は人類史上最大です。
でも「あなたが努力しないからでしょ?」
と言えてしまうのです。
自分さえ良ければ良いのがデフレ容認派ということになります。
”自分さえ良ければ”自分と自分の周りぐらいです。
社会を語る時も「個人」を前提に語るので、国家という共同体を前提に語る人と議論が噛み合わず、やれ”起業すれば良い”とか、イノベーションが大事だとか、やたらとグローバリゼーションを推進したりするのです。
グローバリゼーションは個人を前提としている
実はグローバリゼーションも”個人”を前提としています。
グローバリズムというのは、ヒト・モノ・カネの自由な移動をできるだけすること、国境を無くすことです。
国境がなければ、「国家」という共同体を考える必要はなくなります。
企業は、自国に縛られることなく好きな場所に拠点を移すことができるようになります。
「企業が好きな場所」というのはどういう場所でしょうか?
もちろん「人件費の安い場所」です。
企業は、利益最大化のために人件費をできるだけ抑え、国を転々とします。主に途上国となります。
その利益最大化の”利益”とは、株主、投資家の利益です。
もちろん途上国の雇用は創出され、賃金も上がっていくので途上国からしてみれば嬉しいことですが、途上国の雇用が増えるということは、その企業が拠点を移す前の国では雇用が悪化することを意味します。
全世界の人間の生活レベルがグローバリズムで底上げされる可能性はあります。
国、民族、国境、文化等を考慮に入れなければ、また全世界が常に”平和”であれば実現できないことはありません。
しかし、私はこのグローバリズムという考え方は、結局先進国の国民(賃金、物価が高い国の国民)を”犠牲にする”ということです。
先進国の雇用は悪化しますし、賃金も下がります。
増して、我が国はデフレですので更に、デフレ経済が促進されます。
「国家、国境など関係ない、地球にいる人間全てが平等であるべきでまた公平であるべきだ」
地球市民主義的な意見ではありますが、私も心からそう思います。
ですが、今はまだ資源に限りがあります。
今後、コンピュータ技術の発展によって、水や食料やエネルギーなど人間が生きていく為に必要なものがフリーになるかもしれませんが、現状は有限です。
この理想は実現して欲しいですが、実現のために日本国民が犠牲になり、デフレを受け入れることを良しとすることは私にはどうしても賛同できません。
最近は、人手不足から賃金も上がりつつまた、運送、建設など一部の業界では正社員登用も増えているとのことですが、同時にデフレ圧力となるサービスも増えているように私には見えます。
グローバリズムが個人を前提とすることについては、このようなことからも言えます。
例えば国家間同士の摩擦、紛争や戦争の時にはグローバリズムにおいては、「じゃあ他の国に行こう」という”発想”になります。
実際、その時に他の国に行けるかどうかはわかりませんが、そういう発想にならざるを得ません。
まして、我が国は戦後のGHQの占領政策によって「戦うことは悪いこと」のように洗脳されています。
それがお花畑平和主義となり、「戦争になったら逃げる」といった論調になるのでしょう。
そしてこのお花畑平和主義はこのグローバリズムという考え方に非常に親和性、相性が良いのです。
危機を想定しない、みんな良い人、人類みな兄弟、地球市民、などの綺麗事がグローバリズムという価値観においてお花畑平和主義という価値観においても、共通しているのです。
平和前提の個人主義は現代社会の暗い部分は無視して、良いところだけを見て、社会を論じてしまうことに問題があるようです。
ビル・ゲイツが最近、こんなことを言っていたようです。
https://www.businessinsider.jp/post-33430
私はこの手の人物ほど影響力のある者が予言めいたことを言う時は、「そうしたい」「その予定」という意味で捉えています。
これらを実現できる影響力や実戦的なパワーを持っているのであれば、予言ではなく予定と考える方が自然だと思うからです。
予定は変わることもありますが。
まとめ
誰だって自分が大事です。
追い込まれたら自分自分になってしまうのは仕方無いことだと思っています。
しかし、極端な個人主義になれば、スタートラインの違う人々の人生には格差が生じ、強い者はより強く、弱い者はより弱くなっていくのは、自然な流れでしょう。
弱肉強食の世界が世の真実ではありますが、それを社会全体で推進させようという動きにはどうにも違和感しか感じないのです。
我が国は、自然災害大国でもありますし、今日食べたもの、来てるもの、豊かな生活は誰かの労働や投資によって享受しているということを思い出して、助け合って生きていかなければ我が国は本当に滅びてしまうと感じています。
個人主義が行き過ぎると自殺も増えるのかと最近思うようになりました。