よく「批判なら誰でもできる。批判だけなら対案を出せ」という言葉を聞きます。
一見、正しそうな前向きな言葉でいかにも企業経営者が好きそうな言葉です。
しかし、「対案を出す」という行動は常に必要なことなのでしょうか?
「対案を出せ」という言葉が発せられる過程は基本的に以下のものだと考えられます。
1 問題が発生する
2 その問題に対する対策を講じる
3 その対策手法に批判が集まる
4 対策手法を提案した者が「対案を出せ」と発言
批判者は対案は特になく、あっても却下され、最初の提案でズルズル時間が経過し、決定する。
と、概ねこういった過程で行われています。
政治はいくらか違いますが、マスメディアに出演した政治家がよく言う言葉がこの「対案を出せ」です。
この言葉はよく”いわゆる”保守(単なる新自由主義者)と呼ばれる政治家や年配の言論人、企業経営者などのビジネスマン、コンサルタント、弁護士などからよく聞く印象です。
しかし、この言葉は今の日本国民にとっても国家にとっても非常に危ない考え方であり、また社会を考える上では実に愚劣な言葉だと私は考えています。
今更、対案を出せと言う人間を批判するのもなんですが、対案を出せという言葉がどれほど無意味で詭弁であって、バカなことなのかは説明されていなかったように思えます。
この記事ではこの辺りのことを考えてみたい思います。
「問題を解決する」ということ
問題を解決するには、まずその問題を「正確に認識」しなくてはいけません。
これは、”問題が問題とされること”も含みます。
つまり、
「問題は、問題と認識されるまでは問題ではない」
ということです。
現実的にはこの考え方が当てはまります。
例えば、企業活動において、モノやサービスが毎月多く売れてウハウハな時には、問題は認識されづらいし、認識されたとしても基本的に見て見ぬふりをする場合がほとんどです。
売れなくなった時に、その売れない理由を探し出し、様々な問題を見つけて、「問題が発生した」となります。実際には元々あった問題が顕在化したということです。
その問題には大きく分けて2つのアプローチがあります。
それは以下の、
「原因に対して」
か、
「結果(症状)に対して」
となります。
先ほどの例で言えば、「売上が上がらない」という大きな問題があった時に、大きく分けて「売上が上がらない原因」に対してアプローチするか、「売上が上がらないことで起きている”結果”」に対してアプローチするかということになります。
「売上が上がらない原因」を問題とするなら、マーケティング・ミックスがいけないかもしれないし、人材のセールス能力かもしれないし、商品そのものに欠陥があるのかもしれないし、と色々分析する必要があります。
しかし、「売上が上がらないことで起きている結果」に対してアプローチするなら答えは簡単です。
売上が上がらないということになれば、人件費などのコストが、売上に占める割合として増えていくことになります。
そうなれば、企業としての利益が減りますし、株主配当も減ることになります。
つまり、「売上が上がらないことで起きている結果」は「利益圧迫」ということになるのです。
だとしたらやるべきことはひとつ。
「コストカット」
ということになります。
このように問題を解決すると言っても、その問題の認識が違えば、対処、対策は全く違うものになるのです。
対案などいくら出しても無駄
前段の例で、問題解決のアプローチを後者のコストカットにした場合、その対策に対して批判するということはどういうことでしょうか。
経営陣の言うコストカットに対する批判としたら、例えば、
「従業員の士気が下がり益々売上が減る」
「他社との取引関係も悪くなり従業員の負担も増える」
「人件費を削るならまずは役員報酬からするべきだ」
「今、コストカットをしたところで根本的な問題解決にはならない」
など色々言えるわけですが、この時に、
「じゃあどうするんだ!」
「このままでいいのか!」
「批判はいいから対案を出せ!」
と、こうなるわけです。
お分かりになりますか?
元々の問題認識の時点で問題の原因を解決するか、その問題から生じている結果を解決しようとするかで、全く話が変わってしまいます。
要するに「議論の前提」が全く違うのです。
コストカットを提案した方は原因から来る結果に対してアプローチし、コストカットを批判した方は原因そのものにアプローチしているということです。
こうなった場合、対案などいくら出しても全く採用もされないし、元々「答えは一つ」の前提で話が進んでいるのですから議論そのものが無意味です。
これは、今の医療にも同じ傾向が観られます。
現代医療というものは基本的に西洋医学であり、「対症療法」です。
対症療法であるということは、症状、結果に対してアプローチする、治療するということになります。
胃が痛ければ胃薬を処方し、頭が痛ければ頭痛薬を処方するといった具合です。
その病気になった原因を考え、病気にならないようにその病気の原因を断つということは現代医療ではまず行いません。
なぜなら、対症療法で言う「問題の解決」とは
「問題(病気)によって発生した症状(結果)を和らげる、無くす活動」
に主眼を置いているからです。
もっと言えば、医療も「ビジネス」なので患者には多くの薬を処方し、多くの検査をさせ、多くの病名を付けることにインセンティブが働きます。
対症療法とは一般企業で言う「短期主義的問題解決」であって問題の根本的な解決はしないということです。
現実問題、私が病院のコンサルティングに入った場合にはこのように助言するしかありませんし、言わされるでしょう。あるいはM&Aです。やりませんけど。
それでも赤字が多い病院施設は既に、患者から見透かされているのかもしれません。
対案を出すということは、当然、議論の前提は同一でなくてはいけませんし、問題認識も共有されてなければいけませんが、対案を出せと言う人の多くは問題認識を見誤っており、「今だけ」しか見ていないことが多かったりもするのです。
こんな小難しいこと言わなくても、「悪い結果が見えることはするべきでない」ってだけの話で、そこに対案もへったくれもないわけです。
「科学的根拠」や「データ」を手放しで信じてはいけない
提案やそれに対する対案を出す時に科学的根拠やデータを出して説得力を上げる工夫を一般的に行いますが、科学的根拠やデータは手放しで信じるべきではありません。
を参考にしていただければと思いますが、優れたコンサルタントや科学者ほど、
「科学的根拠やデータは結果に対する後付の理由に過ぎない」
と理解しています。
元々、統計学というものは、「国家統制学」が源流であり、学問としては政治算術が基礎となっています。
男性に多いですが、科学的根拠、データを信頼しすぎると言うのは違う言い方をすれば、「騙されやすい」ということになりますので注意したほうが良いです。
まして、政府の出すデータなど現在トップクラスで信用できません。
まとめ
「対案を出せ」という言葉の無意味さ、愚かしさはご理解いただけたでしょうか。
対案など出したところで無駄であり、その議論さえ無意味ということになります。
対案を出せとか、根拠は?と言う人には、その辺りを説明してあげたほうが良いかもしれません。
そこで、相手が出す反応は「認知的不協和」か「バカにした態度」でしょう。