よくこういった話を聞きます。
「若者の貧困、格差の拡大で結婚できない若者が増えた」
「若者の車離れ」
「若者のお金離れ」
といった意見です。
以下の記事でもそういった説明がされていますし、私も概ね正しいと理解しています。
若者の貧困で結婚できない!貧困男子が社会の問題に?単身社会の行く末は?
とは言え、若者の結婚について違った意見もあります。
例えば以下のような記事。
日本の若者は結婚できないのではなく結婚したくないだけ―中国ネット
「セックスも結婚も、できないんじゃなくてしないだけ」 若者たちが使い分ける“3つの欲”
これらの記事の結論は、
「結婚したくないだけ」
「自分の時間を楽しみたい」
「結婚にメリットがない」
といったことです。
様々な意見を総合して考えるとあるひとつの結論が浮かび上がります。
この記事では、「若者の”お金がないから結婚できない”は本当か」ということで考えてみたいと思います。
貧乏でも結婚できた時代
先程も書きましたが、基本的に「お金の若者離れ」という意見が正解なんだろうと思っています。
しかし、「お金さえあれば結婚ができるのか?」と言われればちょっと違うような気もします。
かつての日本では、貧乏でも結婚していましたし、その上5人6人と子どもをこさえていたというのはザラにありました。
仮にお金がないから結婚できないというのであれば、その頃から「若者が結婚ができない社会だった」ということになります。
そうだとしたら、「お金がないから結婚できない」という理由は根本的な理由ではなく、その理由は、
「安心がないから結婚できない」
あるいは、
「不安があるから結婚できない」
といった可能性があります。
テクノロジーの進化や共同体意識の崩壊、極度の個人主義的価値観といった理由も含めると、あながち間違いでもなさそうなのです。
不安が結婚を遠ざける
かつての若者が貧乏でも結婚できたのは、終身雇用制度があり「会社」という共同体が安心を担保していたからと言えます。
私の田舎などの農村部では「地域」が会社と同じく共同体として安心を担保してくれていたのです。
なぜ、会社や村などの共同体が個人に安全を担保、保障していたのかというと「若者の結婚」がその共同体を「維持」させることだからです。
例えば、会社というのは「労働力」として人を雇います。
現在ほど技術が発展しておらず自動化などまだまだといった時代でかつ、需要が供給を遥かに上回っていた時代あれば、従業員の数がその会社の売上、業績を左右するということになります。
会社側としては従業員に対してずっとうちの会社で働いてほしいといったインセンティブが働くようになります。
従業員サイドとしても単純作業でも真面目に働いていれば毎年給料も上がり、死ぬまで会社が面倒を見てくれるというメリットがあればわざわざ職を変えようとまでは思わなくなるのは想像に難くありません。
会社としてはそういった従業員に結婚をしてもらい、子どもをこさえてマイホームを買うといった消費活動を行ってもらうことで、表現は悪いですが、会社に縛り付けることができるのです。
会社に従業員を縛り付けることができれば、その従業員は今後も会社に貢献します。
だから昔は上司や会社関係の人がお見合いを勧めてくるということがザラにあったのです。
従業員としても結婚をして長期のローンを組んで、子どもにもお金がかかるとなれば、なおさら、その従業員は「辞める」というリスクを取る理由がなくなります。と言いますか辞めることにデメリットしかありません。
そもそも、給料も毎年上がるし終身雇用だし、趣味もそれなりにあるしと満たされれば、恋人を作ろうと思うでしょう。
かつては現在ほどアダルトビデオ業界も進んでいなかったはずでしょうし、一人で満足といったことも限界があったはずです。
といったことで、かつての若者は共同体に属する安心が保障され、また現在よりも情報が少なく不安を感じづらいといったことで、結婚に対し”消極的では”なかったのです。
とは言え、”自分のことだけ”考えれば結婚する必要はないと考えていた若者も相当数いたはずです。
しかし、自分のことだけ考えて人生の選択をするということができなかった時代でもあったのです。
個人の暴走と共同体意識の破壊
我が国は戦後、GHQの占領政策によって「個人主義」という輸入の思想を植え付けられました。
米国には日本人の共同体意識(地域性、郷土愛、ナショナリズム等)を破壊し、個人主義を近代的と奨励することで二度と立ち上がれない民族に改造する必要があったのです。
なぜなら、米国が一番恐れているのは日本人だからです。
国連憲章の敵国条項から日本を除外することをどこの国よりも反対するのは米国ですから、ここからもいかに米国が日本人を敵視しているかが見て取れます。
因みに憲法9条の改正をしたところでこの敵国条項がそのままであれば、米国中心の国際社会は、日本を敵視し、場合によっては武力攻撃も国連安保理の決議なしでできてしまうということなので、憲法改正論議はこの敵国条項について同時に話さなければ意味がないのです。
話を戻します。
共同体意識がなくなり、「個人」しかなくなった日本人は同じ日本人という意識も国民同士で持たなくなりました。
そうなることで、個人は仕事や生活空間という意味では社会という共同体に属しているものの、精神的な部分ではその共同体を重視することはなく、また各個人が自身の人生の全責任を取るという意識になっていっています。
「自分の人生の責任は自分で取る」これは今でこそ当たり前のように感じるかと思いますが、これは一人で生きていくことを是とする考え方と言い換えると、果たして、「ひとりで生きていける人間」などいるのでしょうか。
個人主義が植え込まれ、共同体に属することを煩わしく思い、新自由主義的な自己責任論で結果を出せなかった人間は切り捨てられるという社会になれば、そりゃ若者も自分を守るために不安要素、不確定要素はできる限り排除しようとするでしょう。
それが、「結婚をしない」、「子どもを作らない」、さらに「若者の自殺」を誘導する結果になっていることも否めません。
若者の未来に安心を作ることが少子化対策になる
したがって先行き不透明な不安が若者の結婚しない理由になる、少なくともその可能性は考えられるはずです。
共同体が機能していれば多少給料が低くても、「もし何か困ったら助けてもらえる」、「子どもは地域も一緒になって育ててくれる」、「何らかの事情で仕事ができなくなっても地域や国が家族の面倒をみてくれる」といった安心があれば、少なくとも結婚しやすくはなるでしょう。
こういったことを言うと反論として、
「出産育児一時金や傷病手当金などの社会保障制度はあるじゃないか、それらを利用しないで何もしてくれないは甘えだ」
といったものがよくあります。
この記事を全部読めばそういうことじゃないというのは理解できると思いますが、私が言っているのは「意識」の問題だということです。
繰り返しになるので説明しませんがこの反論は、「話聞いてたか?」と質問返ししたくなるレベルなので相手にしてられません。
もちろん、これはバランスです。
面倒を見過ぎれば何もしない自堕落な若者が増えていくだけでしょうから、同時に教育も変えていかなければいけません。
福祉国家にせよと言っているのではなく、せめて今ある少子化問題、出生率、若者の自殺、若者の賃金の問題ぐらいは対策できるでしょということが言いたいのですが、こういったことを言うとまた以下のようなおかしな反論が来るのが我が国日本の病理です。
「だったらお前が政治家になってこの国を変えればいいじゃないか!言うだけなら誰でもできる!」
一見尤もらしい意見ですが何も知らない人ほどこれを言います。
これを言える人は、日本の社会構造、支配構造、不正の有様を知らないからこそ言えるのです。
知ってたらとても言えません。我が国に民主主義は成立していないのです。
まとめ
「金が無いから結婚できない」
ではなく、
「不安だから(安心がないから)結婚できない」
ということをおわかりいただけたでしょうか?
実際問題、仮に若者に1億円ポンとあげたとしても恐らく散財した挙げ句、元通りになるのが関の山でしょう。
未来に希望を持ったり、安心を得るには、結局、
「共同体に必要とされ、また自分が共同体を必要とする」
環境が重要なのです。
今の若者は一歩踏み出す勇気がないとよく年配の人は言いますが、その勇気は共同体という「希望」が源泉になっていたことを思い出していただきたいと切に願います。