先日、友人と話していた時に、
友人の子どもが友人に「なんで”いただきます”って言うの?」
と質問され、何と答えていいかわからなかったと言うのです。
非常に子供らしくて良い質問だなあと私は思いました。
友人も毎回手を合わせいただきますと言ってから食事を始めるのですが、当たり前のことだと思っていてそのことについて深く考えたことはなかったようです。
この記事では「何故、いただきますを言うのか?」について書いてみたいと思います。
いただきますとは”何に対して”言うのか?
いただきますの対象には、私はいくつかあると思っています。
食材の命
口に入るまで関わった人
と私は考えています。
食材の命とは?
食材の命に対してというのは、現在はまだ基本的に人間は、
「何かの命を奪わなければ自分の命を繋ぐことができない」
という前提があるため、動物や植物の「命」に対して「いただきます」というのです。
欧米の感覚だと、ベジタリアンだったら良いとか、動物の肉だからダメとかなるのでしょうが、関係ありません。
動物はもちろん植物も”痛み”を感じているということは最近ではわかってきました。
植物は自分の身に危険が及ぶと、鉢などをおびき寄せるための香を出すらしいです。
「自分の命と、他の命の交換」
の儀式がいただきますということになります。
その意味は、「あなたの命で私が一日、生きさせてもらいます。ありがとうございます」
ということです。
だからこそ、残さず食べるということも美徳とされるのでしょう。
この論理で言えば「食事を残す」という行為は、「交換された命が無駄になる」ということになります。
理屈っぽく話していますが、人間として当然といえば当然です。
そんなに人間は立派な生き物ではないので。
今は、人間が食物連鎖の頂点に位置しているから、食事を残すこともいただきますを言わないことも、社会では罪にはなりません。
上位に人間よりも高い位置に何かがいた場合、人間が喰われる側に回るわけですが、仮にその時、完食してもらったり、いただきますと言ってくれる場合とそうでない場合、どちらが浮かばれるか?ざっくり言えばどちらが嬉しいか?
となります。
そりゃあ前者だよとなるのが普通だと思います。
このように言葉にしてみると、なぜいただきますというべきなのか見えてくると思います。
現在の技術では人間は生まれてから死ぬまで、毎日何かの命と交換し自分の命を繋いでいます。
それが人間の生まれながらに持つ「原罪」、「業」などと言ったりします。
因みに、反捕鯨とかイルカの追い込み漁云々と外国は騒いでいますが、あれは一言で言えば、単なる
「外国の食文化を認めない、野蛮で下劣な人種偏見と差別に基づいた金儲けと侵略」
です。
私は、基本的に虫を食べることが苦手です。
しかし、それを食べてる人を否定はしません。
逆もあり得ると思うのです。
我が国では明治以降に牛肉を食べるようになりましたが、それまで牛は労働力だったので、欧米は牛のおいしさを知らなかった日本人に美味しい食べ物を教えたことになります。
しかし、日本人がその頃に牛を食べるなんて野蛮だと言ったら彼ら欧米人は何と言うでしょうか?
考えるまでもありません。
反捕鯨運動などに関わる連中というのは、未だ他国への侵略癖が抜けきれてないのでしょう。
非常に歪んだ正義がそこにはあるのです。
口に入るまでに関わった人に対して
例えば、あなたが牛肉のステーキを食べる場合に、それまでの過程で何人もの人間が関わっているということです。
畜産農家が、牧場や小屋などで餌や水を与えて、掃除をしたり、繁殖させたりなどして牛を育てます。
その牛はいずれ出荷されます。
出荷される際には、牛を運ぶ人や運ぶためのトラックや道路が必要です。
次に牛は屠殺業者によって解体され、肉卸の業者に分配されていきます。
ここでも、屠殺業者による人手や、冷凍するための冷蔵庫、運ぶためのトラックや冷凍トラック、道路などが必要となります。
次に肉卸業者に回った肉は小売店に販売されます。
小売店に渡った肉は、消費者の必要とする分を切り分け、販売します。
そしてそのお肉を購入した消費者は、まな板を使ったり、胡椒を使ってフライパンで焼いたり、炭火で焼いたりし、皿の上に乗せ、ナイフやフォーク、箸で口に運ばれます。
ご理解いただけると思いますが、この過程には全て、関わった人が事業として投資をし、リスクを負っているということと、またそれによる技術を持っているということです。
ステーキを食べるという”だけ”の行為には、牛を育てる技術を持つ畜産農家や物流技術を持つ運送会社、道路を造る技術を持つ建設会社、トラックを作る技術を持つ自動車メーカー、トラックを運転する技術を持つドライバー、ドライバーが免許を取るために通った教習所、冷凍技術を持つ冷蔵庫メーカー、解体技術を持つ屠殺業者、屠殺に使われる器具などを作るメーカー、卸売業者の小売店ルートや保存技術、小売店の保存技術や解体技術、フライパンを作るメーカー、箸を作る職人、フォークやナイフを作るメーカー、包丁やまな板を作るメーカーなどなど、挙げればキリがありません。
ステーキを食べる”だけ”の行為に、これだけ多くの人間が関わっていることで、ようやくステーキを食べる事ができます。
関わっている人を挙げればキリがありませんが、このキリがないことを是非考えていただきたいのです。
お気づきのかもしれませんが、「経済」とはこのように回っています。
経済の要素はヒト、モノ、技術、需要、資源です。
先ほどの例で関連した人間全てがリスクを負い投資をしてくれた結果、消費者は便利な生活ができるのです。
だからこそ、その方達に感謝し「いただきます」と言いいましょうということです。
当たり前のことなどない
普段こういったことを考えることはまずないかと思います。
しかし、現代のように便利な生活に慣れていくことで、人は「感謝」を忘れていきます。
感謝を忘れることで、人は傲慢になっていきます。
今生きているのが当たり前、今食事が出来るのが当たり前、今、遊べるのが当たり前と…
そうなってしまっては、周りを不幸にしてしまうこともあります。
「なんかあいつ最近調子乗ってんな」と。
成金に多い傾向ですが、非常に見苦しくはあります。
大抵の場合、そういう人達はお金が無くなってから気付くのですが、お金がある時に注意されても、あるいはたしなめられても、受け入れられないのです。
ただ「俺のことひがんでんだろ?」となり、入ってこないのです。
そして、お金が無くなりふと、周りを観ると誰もいなかったとなります。
ここでようやく過去に注意してくれた人を思い出すのです。
これが、お金さえあればと勘違いする人達の末路で、「金の魔力に喰われた人間」の典型です。
基本的にお金とは債権債務の記録です。
お金の価値は物やサービスの供給が前提ですから、それがなければちり紙より価値のないものです。
アフリカのサバンナでお金を出してテレビを買えますかって話です。
また、当たり前と思いながら生きていくと精神衛生上良くありません。
他人に対して、不毛な期待や理不尽な期待や要求をしてしまいがちだからです。
当たり前と思って良いことはそれほど多くありません。
私が当たり前と思って良いこととしているのは、
「自分を磨くこと」
です。
私にとってこれは当たり前です。
他人様に対しては一切の期待を”持とうと”せずに自分の様々な側面を強くし、鍛えていくことを
「当たり前」としています。
全人類が行うべきと言っているのではなく、単に「私はそう考えている」ということです。
ところが私の場合、磨いても磨いても、曇りっぱなしなのでピカールのような物が欲しくて仕方ありません(笑)
まとめ
いただきますの意味は感謝であること
食材の命に対する感謝と関わってくれた人に対する感謝
経済は誰かがリスクを負うことで成立している。
世の中に当たり前はない
「いただきます」という行為それ自体が宗教的行為ということになっていますが、果たしてそうなのかなと最近考えます。
むしろ私は、人間として生まれた以上、いただきますという行為は正に「当然」しなくてはいけないことなのではないかと考えるようになりました。
では今日も、田舎から送ってもらったお米を、
”いただきます!”(^o^)