「根拠」よりも「合意」で成り立つ社会

「根拠」よりも「合意」で成り立つ社会

これまで社会の動きを観てきて確信に至ったことがありました。

それは「科学的根拠」、「エビデンス」、「統計」、が人を説得させる為に都合よく利用されている、あるいは大衆を誤解させるためや、利益を目的として一定の操作、捏造などが行われているということです。

当ブログでも統計や権威の示す根拠について懐疑的な記事を載せていましたが、構造的にせざるを得ないという環境、その構造に組み込まれた個人は、それに抗うことができないのです。

根拠は利益がなければ機能しない

何かについて説明する際に、色々な根拠を様々な人が提示しそれを基に話を進めていきます。

最も多く利用される根拠は、「権威の作る根拠」で、役所、大学教授、専門家などが示した根拠が信頼度が高いものとされます。

しかし、統計の作られ方、捏造、操作などの実体を確認すれば、それは単に「権威の数字を利用した意見である」と言えます。

権威には、権威の正義、利益が存在し、有名になれるなら、報酬がもらえるならいくらでも結論ありきの「権威としての意見」を出す人はいくらでもいます。

それが、発掘あるある大辞典に出てきたような御用学者なのですがそれは今でも行われています。

最近テレビを観てると、番組の企画内で企業の宣伝を行うという露骨な状況になっていて以前よりも露骨になっています。

マスメディアは支配層の宣伝機関ですから、権威に嘘をつかせるより最初から企画に権威による宣伝を盛り込めばよいとなったのかもしれません。

マスメディアの企画には構成作家がいるものですので権威にも芝居を打たせているのが実情でしょう。

権威は根拠として民間に利用されるからこそ権威という立場で利益が得られるはずですが、これは裏を返せば権威という立場で利益が得られないのであれば、根拠としての機能は働かなくなり、権威の示す主張や論拠は巷にいる人間の意見となんら変わらないといった状況になります。

つまり、「権威の民営化」なるものがこの日本で発生しているのです。

根拠が間違っている可能性を考える

「権威の信頼の失墜」は医療にも波及している〜記憶力至上社会〜

権威が考えを改めない理由

根拠のない情報への接し方

これらの記事でも書いた通り、権威は権威の利益のために自らの主張を行います。

大衆は権威から提供された情報を「自ら確かめる」といった行動を取ることはありません。

本質的に根拠が根拠足り得ないといった状況の中、正しい情報を見つけることは至難の業ですし、そもそも「正しい情報」などというものはこの世界に存在しません。

化学、科学、テクノロジーによる正しい情報というものはあるでしょうが、その話を「社会に持ち込むこと」は、全く別の話になったりもします。

科(化)学的根拠と一口に言っても、科学的に検証されたものは単一素因の前提で検証されます。

例えば、保存料は保存料だけで人体への影響を確認されているだけであって、保存料、人工甘味料、着色料など複数の影響を確認しているわけではないということです。

社会は複数素因で構成されているわけですから、科学的根拠を持ち出すこと自体がナンセンスということになります。

ですが、それは巷に普通に溶け込んでいます。この問題は常にスルーされます。

記憶に新しいところでは、厚生労働省の統計不正、財務省の公文書改ざん問題でしょうか。

統計学にしても政治算術の派生学問ですから、本質的に現実を説明するものではありません。

現在、コロナウィルスの件で情報が錯綜していますし、正に情報戦争が発生している状況です。

マスメディアなど主流のメディアはインターネットも含めて宣伝と操作でしょうし、そうではないメディアの情報は信ぴょう性に欠けるということで、多くの人が「何を信じれば良いのか」という状況になっているのだろうと推測しています。

私個人としては、ウイルスにはかかる時はかかるし、かからない時はかからないと思っていますから、特にマスクや極度に清潔にするといった予防などもしません。

していることはいつも通りに体温を高く維持することくらいです。

逆にコロナウィルスの情報に触れていなければ、何も知らないわけですからその人の中では存在しないのと同じです。

このような人が病気や感染とは無縁で元気いっぱいに生活していることもありますから、神経質になりすぎても今度はそこから具合が悪くなったりもするので、氣にしないのもひとつの方法なのでしょう。

他人が洗脳されているのか自分が洗脳されているのか

自分と違う意見を持つ者に対して、自分がそれまで知らないことに対して、人はある種の痛みを脳に感じたりもします。

私自身何度も経験しましたが、そこで取るべき行動のほうが重要であり、そういった情報に遭遇したとき「様々な可能性がある」と考えられるような思考の柔軟性と様々な分野の知識を取り入れる姿勢と自分自身で考えること、それを実践することが、肝要です。

私に言わせれば洗脳されていない人間などいませんし、どれほど情報に接して自分の頭で考えているつもりでも、それは意外と他人の意見をそのまま自分の意見にしているに過ぎないといったことはよくあることです。

教育システムの洗脳、テレビの洗脳、インターネットの洗脳、本の洗脳、宗教の洗脳などあらゆる情報は受け手が自分で考えることを止めた時点で洗脳の入口が開かれます。

自分を知識を疑うことも、自らの考えを検証することも非常に難しく、面倒で、辛いことでもありますが、それは本来の民主主義のあるべき姿でしょうし、一個人として成長する為の必要な修練だと私は思っています。

他人が洗脳されているとか、自分が洗脳されているとかどっちが正しいとかそんなことはどうでもよく、全て間違っている前提でその中から手探り状態で、あがきながらでも自分の思考を練磨していければ、自ずと自分が取るべき行動は見つかります。

まとめ

どんなことに対しても根拠を求める姿勢は思考停止を促します。

根拠がない事実など社会にはいくらでも存在します。

根拠、エビデンスという言葉そのものに洗脳されないように氣を付けたいところです。

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