何かを疑うことは自分を信じることに行き着く


「疑う」=悪

このように考える日本人は多いかと思います。

人を疑うことは悪いことであり、何かを疑うことはいけないことである。

このように日本人は教育されがちです。

ですが、疑うことはなぜいけないことなのかを考えることはあまり無いように思えます。

この記事ではその辺りを考えてみたいと思います。


疑う=悪は疑われたくない者が施した”社会的条件付け”

そもそも疑うことそれ自体に善悪はありません

ですが、何か悪いことなのではないかと考えてしまいます。

また、何故疑うのか、何故知りたいのかと問われればそれは「安心」を求めているからです。





確かに疑われることに良い気持ちはしませんが、それは聞き方次第でどうにでもなることです。

ポジティブな気持ちから相手を知ろうとすることと、ネガティブな気持ちから相手を知ろうとすることでは、”知ろうとする手段”が変わるに過ぎません。



例えば、恋愛で気になる女性のことを知りたくて、好きな料理とか趣味とか、嗜好とか、今何してるのかなとかあらゆることを知りたくなることがあると思います。




ポジティブな目的であれば、普通に会話の中で聞いてみたり、共通の友人からそれとなく聞いてみたり、最近ではSNSで向こうから勝手に教えてくれたりします。



そうした経緯で、「相手を知ること」が達成されます。



一方のネガティブな目的で知ろうとする場合には、「悪いことをしている」という一定の先入観がある場合がほとんどです。

警察の事情聴取や尋問なんかは正にそれです。



また私が行っている大手メディアに関することを知ろうとする際は、原則的に、「何かやっている」と思いながら知ろうとします。

実際に「何かやっていること」が多すぎるので仕方ありません。




しかし、結果として見れば手段はどうあれ、相手を知るという目的は達成されます

つまり対外的には、あるいは疑う(知ろうとする)対象からしてみれば、「知られる手段」のことが自己の印象の大部分を占めるということになります。

個人的な経験からも相手が私のことを知ろうとする姿勢や行動には、興信所を使われるとか、探偵を使われるとか、尾行とかのいわゆる「人を洗う」手段でなければ、なんとも思いません。

相手が自分のことを知っていた場合、嬉しいと思う時だってあります。




このように観ると疑うことそのものは、善でも悪でもない言わばフラットな行動であり、知ることに対する手段でしかありません。

つまり、疑う=悪というイメージが存在することとは、これまでの我が国の歴史が、基本的に性善説で成り立ってきたからなのです。



相手が悪いことをしないという前提であれば、疑うことは悪となります。

しかし、現実はそんな人間ばかりではありません。


かつて性善説だけで一生を終えられることのできた時代はあったのかもしれませんが、ご存知の通り社会では人を”知ろうとしなければ”安全に生きていけない社会になっています。

その過去の時代に通用した性善説は現代においては最早、リスクになる可能性が高くなっているのです。

したがって、疑う=悪という性善説を前提とした考え方は現代においては、社会的条件付け、もっと言えば洗脳に近いとまで言えるのです。


疑うことは興味を持つこと

ここまでの話を読むとまるで性悪説に立って、なんでも疑ってかかれと言っているようですが、私が言いたいことはそういったことではありません。

先ほども書きましたが、そもそも疑うということそのものは「対象を知るための」実質的にフラットな行動です。

なぜなら知るための表現(手段)次第なわけですから。




私が言いたいことは、疑うことは決して悪いことではないと言いたいのです。

また何かを知ろうという行為は、その対象に興味を持つことが前提です。

興味を持つことで、知るという結果が得られたのであれば入り口がどうあれそんなことはどうでも良いということです。

逆に興味がなければ疑うこともしないはずです。




社会というのは常に”入り口”が綺麗にできています。

しかし、中身を知れば綺麗なのは入り口だけでしたなんてことはよくあることです。

その綺麗な入り口を見て、興味が湧いて、中に入る(知る)実態を知る、がっかりする。こういった経験は多くの人がしているはずです。


そんな社会の中でも、自分の目と頭を信じて「知ることをやめない」ようにしていただきたいということです。


疑うことは考えること

人は”知りたい”という欲求が高まれば、何としてでも知ろうと努力します。

そこで知ったことに対して「何故か?」を問い続けることで考え、また新たに知ろうと努めます。




考えるということは非常に難しい行為だと私は感じています。


自分が導き出した結論が実は、「誰かが言ったことの受け売りではないのか?」とか「自分自身がこれまで生きてきて知ったことに洗脳されているのではないか?」と自分を”疑いつつも”、最終的には、私の「色々考えてみたけどやっぱりこう思う」というように落ち着くのです。


しかし、この思考の迂遠な過程が、自分の頭を鍛えてくれることを私は知っています。


正しいことだけを知っていても思考に幅が生まれず、それこそ、独りよがりの自分だけが正しいという中核派のような危険な思想になってしまいます。



自分を疑うことも大切ですがまた自分を信じることももっと大切です。

自分を信じるまでの過程に必ず、混乱という状況があります。この混乱がある意味私は人の思考にとって重要だと思うのです。

考える”という行為の過程は知る、考える、知る、考える、知る、混乱する、知る、知る、知る、考える、混乱する、結論を出すとこんな感じになるはずです。



”疑う”ことは結局、考えることを避けられず、最後は情報を信じるというよりも、自分を信じることに行き着くのです。


まとめ

「疑う」ということに善悪は元々ない。疑い方の手段で「相手の印象は変わる」

「疑い」と「興味」は不可分の関係

「疑う」ことで「考える」ことを担保とした「自分を信じる自信」が生まれる

となります。


読み返してみると理解しづらい部分もあるかもしれません。

しかし、疑うことをやめれば、一方的に情報が入り込み、それを受けるだけの状態になってしまいます。



それ自体は必ずしも悪いことではありませんが、それだけに傾倒してしまうと情報発信者の意図というモノを見落としたり思考停止の可能性が高まるのです。


疑うことを悪いことと思わずに、疑って、考えて、悩んで出した結論こそ私は、価値のある真実だと思っています。

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