庶民の味方は”庶民”しかいない


最近改めて思ったことがありました。

社会を観ていると私を含めた一般の庶民にはある意識が共有されています。

それは、

「”誰か”がなんとかしてくれる」


という潜在意識と、

 

「自分には関係ない」

 

という顕在意識です。



どういうことかと言いますと、自分の生活に精一杯であることで「社会のことを考えている余裕がない」のと「自分は社会に対して無力である」という無意識の認識が存在しています。

さらに、我が国では「国」というものを真剣に教育しないので政治に対して「部外者の意識」でマスコミの報道を見て、溜飲を下げてみたり、絶望してたりしているように観えます。



でも、一方では生活を維持することに疲れ果てて何も考えられなくなっている状態になっているようにも観えますし、自身の生活の苦しさを「自己責任」だと思いこんでいるフシもあります。

自己責任」を標榜する国(政府)において、国民と政府というのは必ず「対立軸」になります。

これを誰も言いません。



気付いていないのかもしれませんが、考えればわかることです。

国民個人の自己責任で人生を完結すべき」と政府が言うということは、国民にとって政府とは一体何の意味があるのでしょうか?



もちろん、社会保障やインフラ、教育等の重要なことはたくさんある、政府の介入を最小限にすべきなんだという反論もあります。

しかし、これらのインフラ、国民の財産を売り払うというのであれば、つまり、食糧も水も電気などのエネルギーも防犯も自分でやってくださいということであれば、「政府は何もしないから自給自足で頑張ってください」という意味になります。

国民の財産を売り払う国会議員個人は、自身の懐を暖めるのみです。



自己責任論においては、国民の財産を売り払うことも、移民をいくら大量に入れようと、日本国民を貧困に追い込もうと、「間違っていないこと」になります。

自己責任論は「個人」を前提にしているので、社会全体を考える時に利用されるべき論理ではないはずなのですが、何故か我が国では20年以上この論理で国家運営が行なわれてきました。



政府の介入を最小限にすべき理由は、果たしてどんな理由なのか、それは単なる新古典派経済学のドグマに過ぎないのではないかというところです。

庶民が自己責任で生きていくということは、「生まれ」である程度人生が決定してしまいます。

もちろん例外はあると思いますが、割合としてどの程度のものなのでしょう。



社会全体で勝ち組と言われる人間はごくわずかのはずです。

勝ち組よりはるかに多い負け組となった大多数の庶民は、「国のことなどどうでもいい」となるのは必然でしょう。

何もしてくれないんですから。



苦しい生活を強いられる中で、日本国旗を振る愛国者という仮面を被った政治家が現れ、その政治家は英雄のように観え、日頃のストレスを発散するハケ口となったりもします。

これがルサンチマンです。


ワンフレーズポリティクスで、抜本的改革という革命とも言える激しい法改正を断行したり、靖国神社に参拝しながら、国を破壊する移民を受け入れたりグローバリズムを礼賛したりするのです。

こういった愛国者のフリをする政治家、例えば小泉純一郎や維新の会の連中などは日章旗を利用して日本を売り払うという芸当をやってのけた人間です。



少なくとも、自己責任論を振りかざす為政者の時期というのは必ずこのような「欺罔行為(騙し)」を国民に行い国民の生活を苦しめていきます。

だからこそ、自己責任論が軸の新自由主義を前提とすると「政府と国民は対立軸になる」のです。

こうなることで国民と政府は切り離され、民主主義は機能しなくなります。


国民と政府が切り離されると民主主義が機能しないというのは、政府が「どのようなことも好きにできてしまい、国民がいくら困っても個人の自己責任で片付けることができる」からです。




政党の公約が行なわれているかをチェックする国民はどのくらいいるでしょうか?

いたとしてもどのようにその政党や政治家に訴えるのでしょうか?

事務所に行ったり、デモをしたところで変わったことはあるのでしょうか。


政治家はこう思うでしょう。



「こいつらには適当にガス抜きさせるか金でも与えておけば黙るだろう」


民主主義が人類の歴史上で一度も成功しないのはこのためです。


庶民、大衆が勘違いしていることは多々ありますが、最大の勘違いは「偉い人は庶民の味方である」という勘違いです。

この記事ではこの最大の勘違いを考えてみたいと思います。


強い人が守ってくれるなんてことはない

「弱きを助け、強きを挫く」

この言葉を聞いたことがある人は多くいるかと思います。

かつての侠客はこの言葉、思想を地で行っていました。



ところが、侠客は暴力団となり「強きを助け、弱きを挫く」と真逆の様相を呈することになりました。

強い人が弱い人を守るという価値観はある種「庶民の希望」を映し出しています。


ヒーロー物のアニメや漫画もそうですし戦隊モノも、弱い人を助け、悪者(強い者)を成敗する構図となっていますが、私にはこれがそもそも大衆向けの支配者による洗脳のように観えます。

この価値観が大衆に刷り込まれれば、「御上(強者)はきっとなんとかしてくれる」とか「神風は必ず吹く」といったような意識、いわゆる「正義は必ず勝つ」ならぬ、「善は勝つ」といった世界観になってしまうのではと私は思っています。




事実、かつて私もそう思っていましたし、意識せずにこのように思っている人が周りにも多くいます。

私自身、「善は勝つ」が達成されて欲しいと心から願っていますが、悪は善よりも短期的に強いので一時的に必ず負けてしまいます。




人間社会で「強い人」というのは我が国では一般的に悪い人であったりもします。

そういう悪い人というのは、本当に悪い人なだけに「悪そう」じゃなかったりします。



そういう人間が果たして家族でも身内でもない、弱い人を守ろうとするでしょうか?

私の知る限りそんな人間は存在しません。

そういう人間は、弱い人や弱い立場の人を「利用しよう」と考えます。

そこで生まれるのが「支配と搾取」です。




搾取を継続、維持させるために弱者にアメを与えることはしますが、基本的にその弱者を守ろうという意識は、基本的に強者には存在しません。

もちろん例外はありますが、新自由主義という弱肉強食の世界ではこの選択が「合理的でかつ正解」だということです。



したがって強者が弱者を守ることそれ自体が「非合理、非効率、不正解、無意味」となるのであれば、弱者を守ろうとする人間などいないということになるのです。

少なくとも、強い人が守ってくれる、助けてくれるという「甘え」だけは捨てなければ弱者は強者(支配者、為政者、経営者)の糧となる未来しか残されていません。


強者は弱者から奪うことで維持される

「強い国は弱い国から奪い(世界銀行、国際通貨基金、国連、アメリカから、途上国や東側諸国に対し)、資本家は労働者から奪い(権利収入、所有と経営の分離)、政治家は国民から奪う。(税金、売国行為、利権)

世の中は奪い合いだ。ちょっとずつ気付かねェようにしているだけで、俺が『奴隷君』から奪うのとなンも変わらねェ。奪るか奪られるかなら、俺は奪る方を選ぶ。」

カッコ内は私の主観です。これはヤミ金ウシジマくんという漫画の一セリフです。



これは、現代の世界を的確に映し出している言葉です。

この言葉を少し変えるとこうなります。


「銀行は企業から奪い、企業は国から奪い、国は庶民から奪い、庶民は同じ庶民から奪う」


こういった角度でも成立します。

 

また、

「銀行は国から奪い、国は企業から奪い、企業は市場から奪い、庶民は同じ庶民から奪う」

も成立するでしょう。



現代は、企業が国家よりも上位にあります。企業が国を選べるグローバル化というのはこのような結果をもたらしました。

未来投資会議や規制改革推進会議等の政府の有識者会議なんていうのはその象徴と言えます。



お殿様よりも商人が強いといったところでしょうか?

そんな状態になっており、その力の頂点が「金貸し」です。

現在世界を支配している人達というのは「個人」や「その家族」のコミュニティです。

そんなことはないはずなんですが、本当に民主主義が成立しているなら、庶民に力が集約するはずですが、だとしたら人類の歴史上、一度も民主主義が成立しないなんてことはあり得るのでしょうか?




ところが「民主主義という政治体制を庶民のガス抜きの為に作られた欺瞞の制度」と考えるとしっくりきます。

この略奪サイクルを観ると、基本的に「奪いやすい相手から奪う」ようになっています。

では、

「何故、人間は人間から奪うのか?」

それは、貨幣制度の中で生きていくには奪うしか方法がないからです。

我が国のようなデフレの国で名目GDPが横ばいの国ではそうならざるを得ないのです。




そんなことはないと思うかもしれませんが、例えば、雇用されている人は自分が生み出している金額からいくらか引かれて自分の手元に入ってくるはずです。

会社の取り分もそうですが、税金や社会保険料も見方によっては必要のない出費かもしれません。

消費税なんてのは全く必要のない税金です。

百害あって一利なし、財務官僚の出世や一部の輸出企業の為に庶民が苦しむだけの税金です。



社会保障に充てるとか、国の借金とか色々と理由を付けますが、社会保障には当てられていませんし、政府の負債に当てられたところで国民にとってはデメリットしかないのは明白ですし、財務官僚もこれを理解しています。

自分の「豊かさ」(精神的、物質的にかかわらず)のために庶民から奪っているに過ぎません。



企業で言えば、デフレによってコスト削減の要請が末端の産業や末端の企業に、資本力による上から下への力が働き、常に末端の企業に負担が行くのです。

最終的に末端の企業の現場で働く労働者に負担が行きます。

この構造は、結局のところ負担を自分より立場の弱い者に押し付け、弱い者から搾取するという古代から続くピラミッド型の構造です。



弱い者は弱い者同士で負担の押し付け合いをします。

つまり、弱ければ負担を押し付けられるというのはこういった社会構造と個別の力の流れがあることで、「強者は弱者から奪うことで維持される」ということになるのです。


権力は強者の為に存在する

前項で考えてみた通り、強者が弱者を助けることは基本的にはなさそうです。

弱者は弱者同士で負担を押し付け合う我が国の弱者達は、何故、上に反抗しないのでしょうか?


弱者同士で結束して上に反抗し権利を勝ち取るぐらいのことはしそうなものですが積極的にはしません。

ここに恐らく「弱者の甘え」と「権力、権威に対する教育」があるのだろうと思います。



冒頭で書いた「誰かがなんとかしてくれる」という意識と、更に「自分にはできない」という自己否定意識、この二つの意識は、義務教育を含めた社会システムがこのような意識を人間に醸成させます。

このような社会システムは、「権力、権威への服従」と「権力へ反抗しない意識付け」が主になっています。


こういった社会システムは誰が作るのか?

もちろん「権力者」が作るのです。


自分の立場を脅かされることのないように大衆を教育、洗脳し反抗する意識も弱者同士結託しないように、「個人主義」を奨励します。

このように強者には権力が与えられています。


彼らは別に100%実力でその権力を勝ち取ったというわけではありません。

ただ代々続く権力者の家に「生まれただけ」です。

世襲が全て悪いわけではありませんが、権力者、支配者、為政者が「ある基準」を変えれば我が国のように庶民が苦しむだけの国になることでしょう。

力”というものは権力の中にこそ生まれるのです。


庶民の味方は庶民しかいない

力を持っている権力者に公平を求めることは、ある種、弱者の義務ということになります。

だからこそ、悪政に対してデモや一揆、暴動が起こるのです。

現代のデモなんかを見ていると、そのデモによって相手が困るのではなく、そのデモによって同じ立場の人が困る上に、成果が見えづらいというように思えます。



ストライキもあまり見かけなくなりましたが、交渉というものは”相手を困らせること”に意味があるので、ただ叫んでいても意味がありません。

例えば、宅配ドライバーの人を観ていて思うのは、集団で「報酬を上げないなら繁忙期である12月に撤退する、あるいは辞める」といった主張を「11月後半」に「人手不足」のタイミングで行えば良いのですが、「お客さんを困らせる訳にはいかない」とか「お客さんは関係ない」とか考えてしまうようです。



確かに間違ってはいない考え方です。

しかしこういった見方もできます。

あなたはそのお客さんの為に自分や自分の家族を犠牲にできる意気地なしで冷たい人間」という見方もできるわけです。




そういった主張をすれば、自分や家族を楽にさせることが出来るのにしないということは、バカか意気地なしでしかありません。

自分の心を削られても、自分の大切な家族の為に立ち上がれないのであれば、先ほども書いたように、

「強者に奪われるだけ」

なのだということを理解していただければと思います。


まとめ

「庶民の味方は”庶民”しかいない」

ということで書いてきましたが、最近はもう人材派遣という名の奴隷ビジネスが横行しているので、この辺りで気付かなければもう日本人は終わりです。

我が国が弱肉強食の世界になったのは冷戦終結後で、そこからデフレが続き説明した通りの世界になっていったのです。

自分の財布が、自分の目の前で盗まれることに庶民は同意し続けてきたのです。

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