独裁という言葉と自由という言葉は互いに対立する価値観のように思われています。
民主主義と全体主義、資本主義と共産主義などと言ったようにある価値観や体制について対をなす言葉のように使われています。
ところが、以前の記事でも書いたように、新自由主義の行き着く先、社会の行く末は共産主義社会とほぼ同じになってしまいます。
新自由主義と共産主義の作り出す未来〜優生学は現代に存在する〜
現在は新自由主義というイデオロギーが我が国に纏う空気となっていますが、この新自由主義的な政策を実行し続けること(規制緩和、民営化、グローバル化、移民受け入れ等)で格差が広がり、新古典派経済学的なグローバリズムが実現されていけば、庶民は”平等”に貧困となりますし、少数の支配者層だけが裕福に暮らすことができます。
更に、グローバリズムということは国家、国民の否定ですから国際共産主義運動の目指す結果となるのです。
新自由主義は、自由という言葉を隠れ蓑に金権政治を実現させ、その自由を謳歌する者達の独裁を実現させるイデオロギーだということです。
なのでこの記事では自由の独裁と題してその辺りを考えてみたいと思います。
金持ちの政治に対する影響力
目次
お金を中心とした自由を背景に、金を持つ者が政治すら買うようになったということが問題となります。
「選挙は誰でもひとり一票」という理屈はその通りですが、これは選挙の公平性を意味するものではなく、むしろ選挙の欺瞞性を担保する理屈となってしまっています。
アメリカではスーパーパック(政治行動委員会)というものがあります。
これは、支持候補を当選させることは直接的にはできないものの、支持候補の”対立候補”を落選させるようにすることはできます。
つまり、対立候補のネガティブキャンペーンを資金無制限に行えるということです。
そして、この資金を出している人間というのはほんの一握りの富豪であるということです。
米大統領選のスーパーパック政治資金、少数の富豪に集中ー東亜日報
個人も企業もお金持ちはこういったことができます。
他に企業はロビー活動の予算に多額の金額を設定し、自社の有利になる法改正を行うように政治家や官僚、任意団体等の影響力を持っている者に働きかけます。
更に企業は、政府の行う諮問委員会に役員を送り込み、法改正の「提言」、「アドバイス」という形で自社の有利な方向の法改正を誘導します。
諮問委員会を出たり入ったり、政府の役職をやったりやめたりすることから通称「回転ドア」と呼ばれているようです。
これはアメリカだけの問題ではありません。
未来投資会議、経済財政諮問会議など政府の行う諮問会議は竹中平蔵を筆頭に行われている、「利益相反グループ」あるいは、「利権団体」、「法改正シンジケート」と表現したほうが正確かもしれません。
企業や個人投資家が自由という美名の下に、規制緩和や自由化を追い求めることで、またその者達だけの自由を謳歌する人間のみで、その社会システムの中で人間を選定することになります。
つまり負け組と勝ち組に分かれることになります。
勝ち組は自己の自由を更に追い求めることで、社会の自由ではなく「個」の自由が拡大していきます。
するとその個の自由は、一定の立場、コミュニティにとって都合の良い自由が形成され、そのコミュニティの外の人間には自由が制限されるという結果が生じるのです。
例えば、労働規制の緩和など最たる例です。
企業として利益を追求することは当然であり、そのための活動も法の範囲内では自由です。
人材派遣会社が自社の利益を最大化させるために、雇用規制の緩和を「企業活動の自由化」として行えば、それはまさに彼ら(人材派遣会社や人件費を浮かしたい企業)だけの自由が実現しますが、労働者側の自由は制限されます。
ここで言う労働者の自由が制限されているという意味は、こういった法改正が行われることで、正社員として安定した賃金を得られる自由の「実現度」が低下することで自由が奪われていくのです。
全く奪われているわけではありませんが、少なくとも、かつて当たり前だった正社員として給料が上がっていきマイホームを持ち、終身雇用される人間が少なくなっていることは事実でしょう。
それを、「そういう時代だから」で済ませてしまうところに日本の、あるいは日本人の病理があるのです。
以下の記事にも書きましたが、政治家が大衆にウケる政策をした場合、それは企業にとって人件費が上がること、保護貿易的な政策、規制を強める方向になりますが、こうした「金持ちの自由を制限すること」によってが投資を引き上げられ、「株価の下落」や「国外への資本流出」が発生してしまいます。
そうなると、当然に政権の支持率が下がりますので、結局金持ちの言うことに政治家自身も従わざるを得なくなるのです。
そうしなければ、選挙で当選することもできなくなる、選挙費用も集められなくなると言った事態に陥るはずです。
金持ちの政治に対する影響力はこれほど強力なものなのです。
規制緩和、民営化という企業にとっての自由の型
前段でも説明した通りですが、「企業の自由」と「労働者の自由(大衆)」は対立します。
ここで言う企業とは主に大企業を指します。
企業の自由を追求すれば規制は緩和の方向へ向かいますし、労働者の自由(権利)を追求すれば賃金や労働時間について規制が強化される方向に向かいます。
つまり、一口に「自由」と言っても誰にとっての自由なのか?ということが、重要になってくるわけです。
以下の記事でも書きましたが、自由、平等、博愛などといった価値観はそれぞれ絶対に相容れることはありません。
企業の自由を実現するには、企業が儲けやすい社会を作る方向に運動していくこととなります。
90年代はじめ頃から、規制緩和や民営化によって企業の自由は確立されていきました。
移民受け入れも人件費を抑制したいという企業の要請が存在するためです。
企業にとっての自由を実現するためには、労働者の自由を奪わなくては成立せず、また「自由」という言葉には立場や背景によって内容が変わるものであるということです。
マスメディアが金権政治に迎合することでの自由
企業が自由を追い求め、政治家は企業をはじめとする個人や団体から、寄付金や献金を貰い、選挙を闘い抜き当選するという過程を経て国会議員となります。
その時、その国会議員はお金をくれた人たちが困る政策を行うのか?
例えて言えば、育ててくれた人に弓を引けるのか?ということになります。
まず無理でしょう。
このような過程で民主主義はお金で政治を買う政治体制になる金権政治(プリュトクラシー)に成り下がります。
我が国に限りませんが政治にはこういった前提が存在します。
選挙を何度行っても社会がちっとも良くならないのは、このシステムで民主主義が運営されていることにも大きな原因があります。
これらの状況を踏まえてマスメディアを観るとすれば、マスメディアの自由というのは、「どのような自由」になるのでしょうか?
まず、マスメディアは株式会社であり、利益追求を第一に掲げる一般的な企業です。
行動原理は「利益」となります。
マスメディアの利益とは一体何でしょうか?
言うまでもなく、「スポンサー(広告料)」です。
マスメディアは広告で成り立っていますから、広告主を怒らせて広告料をみすみす手放すということはしませんし、基本的に批判することもしません。
社会正義よりも利益を重視することになります。
戦後教育を受けた日本人で構成されているマスメディアですから、利益を優先することは当然の選択と言えます。
したがって、マスメディアのスポンサーが支持する政治家の批判はできないということになります。
そのスポンサーはもちろん大企業です。
当然、外資も含みます。
極端に言えば、「大企業に買われた政治家しか大衆から支持されない」という仕組みが出来上がっているのです。
もっと正確に言えば、
「マスメディアは大企業に買われた政治家しか取り上げないことで、問題の有無を作り上げ、社会を操作している」
ということです。
買われた政治家とはマスメディアが取り上げる政治家のことです。もちろんマスメディアがその政治家を批判をする場合はあります。
しかし、大企業は政治家に対し、基本的に両張りをしていますし、また大企業が買った政治家はスポンサーに対して忠実ですから、スポンサーの嫌がる政策を進めようとはしません。
故に、マスメディアの自由とは結局のところ、
「大企業の不利益になる報道をしない自由と、マスメディアの利益になる報道(スポンサーと関わりのない報道をする自由)をする自由」
が存在し、維持されるわけです。
前段で説明した通り、企業の自由を実現するためには、マスメディアが利用され、またマスメディア側も喜んで利用されます。
そのマスメディアの下請け企業もマスメディアの意向で動いていきます。
このような過程を経て、金権政治が仕上がっていくのです。
こういった構造があるために、マスコミの偏向報道がどうだとかスピン報道が云々と言ってもあまり意味がないという見方もできます。
そして、金権政治(プリュトクラシー)においてマスメディアの役割は「検閲」となります。
検閲というとGHQが戦後我が国に行ったプレスコード指令を思い浮かべる方も多いかと思いますが、プリュトクラシーの現段階における検閲方法は「黙殺」となります。
報道しない自由とソーシャルメディア
この「黙殺」、俗に言う「報道しない自由」がプリュトクラシーにおけるマスメディアの「自由に利益を追求する活動の大きな一部」になっているということです。
以下の記事で書いたようにマスメディアは社会に議題を設定する機関ですから、マスメディアが取り上げない議題は議題にならず、問題ですらないという社会になります。
つまり、現代社会において真実、真理なんていうものは、マスメディアが生み出す世論であって、マスメディアが取り上げない時点で真理と見做されることはないということです。
これは完全に民主主義の死を意味しています。
さらに、マスメディアとSNS、インターネット上のオルタナティブメディアとの関係を観ると、SNSはトランプ大統領が誕生した大統領選挙、イギリスのEU離脱投票、フランス大統領選挙などで大衆煽動装置としての役割を持ってしまっているように観えます。
SOCIAL NETWORKS AND POPULISM IN THE EU
このような大衆煽動政治は枚挙に暇がありませんが小泉構造改革の郵政選挙が実に典型的だったように思えます。
後に流出した「スリード社の企画書」はあまりにも有名です。
ソーシャルメディアやインターネットメディアでも政治的影響力が無いとは言えませんが、それでもマスメディアには到底及ばないというのが現状だということになります。
そして、このSNSやインターネットメディアで情報を得るという場合でも、マスメディアの同じことが起こると私は観ています。
フィルターバブルの黙殺
上の記事でフィルターバブルについて書きました。
SNSやインターネットで自分の観たい情報しか提供されない、目に入らないということが技術的に起こってしまっています。
これは、国民の分断を生むことになりますし、国民という概念すら破壊され、同じ情報を共有しているコミュニティ、「村社会」が形成されていくことになるような気がしてなりません。
どれほどコアな情報やレアな情報をもっていてもそれがそのコミュニティでしか共有されず、それがSNS上で拡散されても、その情報に興味があるであろうテクノロジーが判断した人間にしか届かないということになるのです。
これは、マスメディアの議題設定効果がコミュニティ単位に縮小しただけのような効果しかもたらさないのではないかとか、結局コミュニティごとに情報が分断され、情報の共有はおろか意識の共有もできないでしょうから、小さな村社会で人間が生きていくということになるという結果となります。
フィルターバブルによって情報がテクノロジーによって黙殺され、人間の視野、思考、言葉が限定的になります。
それがインターネット上でも起こり、マスメディアでも起こっているとなれば、人間は恐らくカテゴライズしやすくなり、また選別もしやすくなることでしょう。
自由でなければいけないという既成概念
これらは、人間が自由に情報にアクセスし、自由に自己の求める利益(経済的利益に限らない)を追求することで、各人が人類が作り出した”テクノロジーに所有”されるということです。
言い方を変えれば、IT技術や他の産業が作り出した商品の奴隷とも言えます。
自由を突き詰めた結果、企業の自由がクリエイトされ続け、個人の自由は”自由と錯覚している状態”となったのです。
私は自由と束縛はバランスするべきだと思っていますし、どちらに傾けるかはその時々で変わります。
我が国のように、デフレーションが20年以上も続いているような国で、需要が減る消費増税を繰り返したり、供給が増加する規制緩和や外資規制の撤廃、民営化をすることなど、愚策でしかないのです。
しかし、これらの愚策は「自由」という言葉に踊らされた社会で決まっていったものです。
こういったことを言うと竹中平蔵氏のように「規制緩和も自由化もやるべきことだから、減税もする上でそれらの政策も行うべき」といった反論が必ずあるので言っておきますが、デフレをナメた結果が現在の状況ですし、アクセルとブレーキを同時に踏むバカはいないということです。
規制緩和にしても国家戦略特区にしてもこういった新自由主義的な政策はデフレを脱却してからでも十分間に合うはずなのです。
先程も書きましたが、これは力を持った者の自由を実現するために行われた政策です。
この主観的な自由は、その主体の自由が全ての自由、正義にまで昇華し、現在では自由という概念は宗教となっています。
現実には、自由とかけ離れた支配にされされているのにです。
自由でなければいけないと考えること、あるいは自由を奪い合うことが、社会の停滞と没落を生んだのかと思うと実に皮肉ですが、これもまた人間の愚かしさというものなのでしょうか。
まとめ
自由の独裁ということで考えてみましたが、とりあえず「自由」というものはあくまでも立場によって内容が変わるということだけでも知っていただければと思います。
各々が自由を勝ち取ってきた歴史を忘れているような気がします。
最近アメリカでは、抵抗権の象徴である銃規制が行われようとしています。
アメリカという国の成り立ちから言って、アメリカ憲法が蹂躙されている現状で更に銃規制が行われたら、アメリカは名実ともに亡国となり、ウォールストリートや多国籍企業などの天下となります。
先日、米朝会談が行われましたがあのような茶番劇を見せられると腹立たしくもありますが、不思議と笑えてきます。
過去に以下の記事を書きました。
この記事中では書いていませんが、平壌から横田米軍基地に直行便が運行されている事実をマスメディアが報道しないことを考えればアメリカと北朝鮮、我が国もそうですが、軍事的緊張などあり得ないこととわかるはずです。
拉致問題にしても以下の記事で書いたように政府は当初から知っていたはずです。
ついでに言えば、横田めぐみさんは皇統の血流であり、金正恩の母親でもあります。
この情報は既にネットにも出回ってますが、私自身は防衛省関係者から聞いた情報です。
こういったことをマスメディアが伝えないものだから、一般大衆が振り回され続けるのですが、マスメディアは絶対に変わらないので、国民が変わるしかありません。
手遅れ感は否めませんが。
これは共謀罪にならないのでしょうか?