言葉は思考の幅を決定する〜思考は言葉に支配される〜

普段私達が何気なく使っているこの”言葉”ですが、これを使えなくなるという事態、あるいは使っていても制限されるという状況を考えたことがありますでしょうか。

以前、言葉の力を甘く見てはいけないという記事を書いた時にはまだ、今回の記事で書くことは説明しなかったと思います。

また、今日の我が国の方向として”英語化”が推進されていることを受け、企業の英語化は日本を復活させるのか?という記事も書きました。

 

これらの記事を書いた時よりも状況はひどくなっている気がします。

なのでこの記事では言語を失う、母国語を失う、思考は言葉に支配されるということということがどういうことなのか考えてみたいと思います。

日本語の語彙の豊かさ

我が国の言語「日本語」は非常に多くの言葉があります。

各国の日常会話で90%を理解するために必要な語彙数は、

フランス語・・・2000語

英   語・・・3000語

ドイツ語・・・・5000語

日本語・・・・・10000語

https://ameblo.jp/exciting-abroad/entry-11873231862.html

と色々なサイトや書籍で確認してみたところ概ねこのくらいの数字のようです。

日本語は本当に多いと感じます。

自分を表す表現だけでも「私、僕、自分、俺、あたし、わたくし、ワイ、拙者、ワシ、おいどん、うち」などなど、よくよく数えてみると多いと思います。

なぜ我が国はこんなに語彙が豊富なのでしょうか。

それは我が国日本が”島国であったから”と言えます。

今でこそ、技術が発達したことによって世界中行けるようになっていますが、産業革命前よりもはるか昔には、島国であったために他国からの侵略を受けづらかったのです。

違う言い方をすれば、攻め難い国であっということです。

天然の要塞だったからとも言えます。

一方、陸続きの国の言語ではシンプルな表現が多く、語彙を多くすることあるいは、曖昧な意味合いの言葉は生まれづらくなります。

と言うのも、年がら年中、地平線の彼方から、侵略者が押し寄せてくると想定した国造りをするとなれば、戦闘中の指示や命令、自国民に対する命令にしてもシンプルでなければあっという間に攻め入られてしまうという事情があったのです。

つまり、我が国日本の語彙が豊かな大きな理由は、地理的条件が多くを占めると言えます。

俳句や短歌、詩、万葉集のような和歌集や枕草子のような随筆などとにかく言葉に対して特別な意識(言霊)を持っている非常に珍しい国でもあるのです。

語彙が豊富ということは思考の自由があるということ

このように我が国は豊富な語彙がありますが、語彙が豊富であることは社会全体に対してどのような影響、並びに傾向が見られるのでしょうか。

今のところ私達、人間は”言葉を使って”自分の考えていること、思っていることを表現します。

自分の考えていること、思っていることを正確に言葉や文章で表現するのは非常に難しいことでもあります。

ある種の感覚を感じてもどうにも言葉に表すことができないという経験は多くの人がしているはずです。

例えば、「とてもありがたいと思いながら申し訳ないと思う感覚」を言葉で表現するならどういった言葉があるでしょうか?

この場合であれば「忝い(かたじけない)」と表現できます。

辞書を見ると若干の違いはありますが、概ねこのような感覚だと私は思っています。

吝かではない」という言葉も何か微妙な心境を表していると感じ取れます。

 

 

 

このブログにしても書きたいことを、言葉を使い文章にして表現していますが、

本意を正確に伝えられているか」は別の問題です。

恐らく伝えきれていません。

それは私の表現力が低いせいです。

表現力のレベルの多寡は自身の語彙力も重要ですが、情報の受け手側の語彙力も見落とせない要素となります。

これはマーケティングで言うところの「ターゲット選定」のことです。

情報の受け手が、日常で使用している言葉をできるだけ使って表現する、あるいは選定したターゲットが使う専門用語を使うということですが、これはマーケティングにおけるコピーライティングの基本でもあったりします。

つまり、読者に自分の伝えたいことを伝えきれていないということは、私はターゲット選定がしっかりできていない可能性があると判断できるのです。

他にも原因は色々あると思いますが。

また、人間は思考を言葉に出して表現すると思いがちですが、人間の思考は自身の使う言葉に支配されている場合もあるのです。

何かの言葉を言って思い出したり、ピンときたり、今言った言葉に影響されて言葉が発せられた後に思考が形成されるといったことです。

そうだとしたら、思考は使う言葉次第で広がることもあれば、狭まることもあるということです。

ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」というベストセラーがあります。

成功哲学、自己啓発で聞かないことはないというレベルのものですが、思考は現実化することは事実です。

更に自己啓発本やセミナーなんかでは必ず「マインドセット」を重要視します。

「マインドセット」とは、経験、環境、教育、その時代の空気や風潮、生まれ持った性質などから形成されるものの見方や考え方のことです。

信念や心構え、価値観、判断基準、あるいは暗黙の了解や無意識の思い込み、陥りやすい思考回路といったものもこれに含まれます。

コトバンクではこのように解説されています。

このマインドセットを行うことで前向きな言葉が出てくるのでその言葉に影響された思考が良い思考を生むと言ったことが自己啓発セミナー等で教えられます。

自己啓発セミナーだけでなく、企業の新人研修などでも似たことは行っています。

以下の名言をご存知でしょうか?

言葉が変われば心が変わる

心が変われば行動が変わる

行動が変われば習慣が変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

ウイリアム・ジェームス(アメリカの心理学者)

かなり有名なのでご存知かもしれません。

これは真実だと私は思います。

少し話が逸れましたが、言葉によって思考が変わるということは、思考を表現できる言葉の数が多いほど、思考の自由度が高まるということです。

語彙力を高めるには読書や会話をして「わからない言葉を聞く、あるいは調べることを繰り返す」か、「勉強」するしかありません。

発想力も変わってくることでしょう。

語彙力は同じ言語を話す相手でもその語彙力レベルで会話が成立しないこともあります。

語彙力があるからといって精神的に自由かと言われれば全くそうではありません。

あくまで「思考の自由度が高まる」のです。

その自由を使いこなせるかどうかは「精神」とか「」といった意識に関わることなので別の問題です。

思考を表現する言葉が無くなれば考える事がなくなる

これまで説明したように、「言葉が(語彙が)思考を形成する」ということは、使う言葉が少なければ少ないほど、思考が狭まっていくことになります。

ん~なんて言えば良いんだろう」とか「言いたいことを言葉にできない」といったことを、いくら勉強しても、いくら辞書を引いても言葉がないために、表現できなくなるのです。

そんな歯痒いことが日常的に続くようになれば、最初の内は歯痒くイライラしても、そのうちそれが当たり前となり「どうでもよくなる」ことになります。

となれば、次に起こるのは「考えなくなる」ということです。

考えてもそれを言葉にして表現できず、伝えられないなら別に伝えられなくていいやとなり、人と接することすら面倒と思うようになるでしょう。

そうすると同じ言語を話す人でも、自分の知らない言葉を話す人とは接しなくなります。

こうして階層が生まれていき、言葉を知らない人間は愚民となりその愚民コミュニティが形成されていくのです。

これは現在でも普通にその辺で起こっていることです。

外国人は外国人同士でコミュニティを作るし、犯罪者は犯罪者でコミュニティを作ります。

言葉を使えない、語彙力が全く無いということは社会の隅に追いやられてしまうということでもあり、それすらも理解できないような人間になってしまうのです。

このように「言葉と思考」はお互いに影響し合う関係なのです。

だからこそ思考を表現する言葉が無くなれば考える事がなくなるということになります。

対義語の概念がなくなったら

現在は、対義語として「自由→隷属」「平和→戦争(混乱)」「美徳→悪徳」のように”対義語”が存在しています。

イメージしづらいかもしれませんがこの対義語の概念がなくなった場合どのようなことになるでしょうか。

これが実現した場合、私は「一般大衆が家畜レベルになる」と考えています。

何故なら、対義語という概念そのものは二元論的であるので、言葉の対になる概念が消失すれば、それが当たり前になるからです。

例に挙げた「自由→隷属」で考えると、もし、隷属という概念を消失させたら人々の発想に隷属という言葉は浮かんでこないことになります。

いくら今の私達から見て、明らかな奴隷であろうとも当人達の発想には「自由」しかないから、自分が奴隷であることなど夢にも思わないとなるのです。

これは当人達は自由だと思っているということです。

何故なら「隷属の概念を知らないから」ということになります。

平和→戦争」にしてもそうですね。

戦争、混乱という日常を繰り返していれば、その状態が正にいつものこと、日常になるので平和の意味もわからなくなってくるでしょう。

また、戦争、混乱状態であることで安全に利益を得るものがいたらその者にとっては、「平和」となります。

このことから人間の認識する平和とはもしかすると「日常の維持」の可能性があります。

私は任侠団体の人の生活を観ていて、ならざるを得ずにその世界に入った人も多くいる上に、下っ端の立場でも地獄、幹部という立場でもいつでも命を狙われるという地獄を味わっているという日常を観て、この人達にとってはそれがある意味では「平和」なんだと気づきました。

一言で言えば、「住む世界が違う」「世界観が違う」ということなのでしょう。

対義語の概念がなくなる、あるいは失くすということは現実に可能なのか?そもそも、そんなことできるのか?と思うかもしれませんが、はっきり言ってできます。

時間はかかりますが不可能ではありません。

別に、その対義語を無くさなくても、対義語を意識しないほど原語を強調することができれば事足りる場合があります。

先程の自由と隷属にしても、隷属という言葉を辞書から削除せずとも、影響力のあるマスメディアなどの機関から、「自由のみを強調する」ことで自分を自由と思い込ませることができる上、隷属という言葉を調べる動機もなくなります。

と言うか、隷属という言葉に出会うこともないでしょう。

片方の言葉を強調するだけで事足りるのです。

それでもおかしいと思うのであれば、現状の我が国を観てみてください。

「自由と平等」という言葉を戦後第一の価値観にしてきたはずの我が国が、何故、これほど貧困状態になるのか。

日本国民は戦後、アメリカによって自由という名の”鎖”をハメられたのです。

そもそも、自由と平等という概念は相容れません。

自由に偏れば、強いものだけが生き残る優性主義者のための弱肉強食の世界になり、平等に偏ればソ連のような一部のエリートが大衆を管理し、また監視の強い”水槽の魚”となります。

自由”だけ”でも平等”だけ”でもいけないのです。

中庸の徳とはおそらくこういったところにあるのでしょう。

まとめ

語彙力が思考を決定付ける

思考は言葉に影響される

語彙は失くすことが出来る

言葉、語彙を失えば思考しなくなる。即ち家畜となる

となります。

 

 

最議中にわざわざ”エビデンスを示せ”などという使われ方をするようなので、いよいよ本格的に我が国の言語は我が国始まって以来の危機となっているやもしれません。

私達が、現在使っている日本語が、”現地語”にならないように心から祈っています。

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