日本の保守には”ナショナリズム”がない

以前このような記事を書きました。

保守も左翼も根は同じ〜思想の分類は意味をなさない〜

色々なサイトにリンクを貼っていただいたようで、感謝しています。

保守と言われる層の主張すること、逆に左翼層が主張すること、どちらにも違和感を感じている方にとっては、共感していただいたようで非常に嬉しく思っています。

今回の記事では、その記事についての補足と書ききれなかったところ等を中心に書いてみたいと思います。

現代日本の保守の出発点

我が国は、1945年に敗戦しました。

約7年の占領期を経てサンフランシスコ講和条約によって主権を取り戻した”こと”になっています。

その7年の間、GHQの占領期間を経ていたわけですが、この時期にそれまでの社会構造を徹底的に改革されたことはご存知のとおりです。

洗脳はエンターテイメントの顔を持つ

それまでの自国に対する国民の意識は”ナショナリズム”が支配的でしたが、敗戦後、逆にナショナリズムを否定する思想が支配的になりました。

そのようになれば、他国の占領を受けているわけですので、それに対する反発も強まりそうなものですが、当時の我が国ではそれほど反発は起こりませんでした。

ここが、GHQの恐ろしいところですが、ある意味で「寛容な政策」を施していたのです。

皇室の存続も、3S政策も、分割統治されなかったことも、暴力による占領政策でなかったことも、ある意味では寛大な措置と言えます。いわゆる”100年殺し”です。

そんなことから、敗戦という惨めな結果を受け入れるには、「軍部に騙されていた」、「もうナショナリズムの時代ではない」「世界政府なる国際連合への期待」などが相まって、「親米路線」を進むしかありませんでした。

我が国で言う、グローバル化、国際化とは「アメリカ化」のことでありますし、我が国のナショナリズムとは親米、アメリカ追従という条件がなければいけないということになってしまったのにはこのような背景があるわけです。

だからこそ、アメリカ的な構造改革にも賛同できるし、自由貿易、日米同盟の強化、TPP参加と言い続けるようになったのです。

つまり、前の記事でも書きましたが、我が国の保守と言われる層の出発点は、1945年の敗戦した日8月15日ということになります。

その頃から、日本神話も教えられなくなりましたから、ある意味で大東亜戦争の敗北で我が国の

”連続性が断絶”したと言えるかもしれません。

限定された保守層のナショナリズム

我が国の言う保守の大半は、親米路線であり、日米同盟を後生大事にしています。

しかし、本来の独立国家というのは、自国で安全保障を整備し、国家戦略を立て、自国の未来を子孫に繋ぐことを真剣に考えることが大前提のはずです。

そのはずですが、我が国の保守が”米国”に対してナショナリズムを主張することは基本的にありません。

田中角栄元首相のように独自にエネルギー政策を行おうとするだけで失脚させられるのですから、もうアメリカには逆らえないという構造が出来上がっているということなのでしょう。

同盟というのは基本的に対等なもののはずですが、我が国の場合、同盟と言いながらアメリカに依存しているということはご承知の通りです。

それなのになぜ、”日本の保守にナショナリズム”が成立しているのでしょうか?

実は、我が国の保守と呼ばれる層にナショナリズムなどありません。

ナショナリズムとは愛国心や自国の文化や伝統を守ろう、自国を繁栄させようといった”自国主義”の思想です。

ところが、我が国の保守には、愛国心と言いながら糾弾する相手は支那、朝鮮、在日韓国人、ロシアなどです。

そこには、我が国を根本から改革し、日本人を改造した米国は入っていません。

日米構造協議、年次改革要望書などが理解、議論されるようになっても、保守層から米国批判を聞いたことはほんの数回です。

粋がって愛国心やナショナリズムを主張する相手は常に、米国以外が対象となります。

これを身近な表現で表すとしたら「強い者には何も言えず、自分より弱そうな者には強く出る」という、極めてスネ夫的な性格が見て取れるわけです。

したがって我が国の大半の保守は愛国心を騙りながら、実際には米国に従属することを是とし、朝鮮、支那に対してはナショナリズムっぽいことを言うご都合主義者達だということになるのです。

一言で言えば「内弁慶的なナショナリズム」しか持ち合わせていないということになります。

差し詰め「粋がる奴隷」といったところでしょうか。

あえて辛辣に書きますが私の感覚では情けない連中と感じてしまうのです。

まぁ私も十分に粋がっておりますが笑

我が国の保守にナショナリズムという日本を肯定する気持ちなど”本質的にはない”のです。

そもそも日米同盟の強化という選択肢が妥協案でなく、積極的な選択である時点で愛国者が選ぶ選択ではありません。

これでは、いくら愛国者だ、ナショナリストだと粋がったところで、「アメポチ」「隷属」「反左翼」としか言いようがありません。

仮に違うというのであれば、なぜ国連の決議を経ていないイラク戦争に我が国の保守は賛成したのでしょうか?

平和を謳い、日米同盟が大事だと言いながら、米国の寿命が縮まるであろうイラク戦争に賛成し、米国の寿命を自分で縮めておきながら、中国の横暴への対策として”日米同盟の強化だ”といったところで、”米国は世界の警察官ではない”と言われるという実にマヌケな事態をどのように説明するのでしょう。

このように親米路線という条件付きで保守のナショナリズムが成立しているという非常に奇妙な状態で出発し、70年以上続いてきたのです。

日本の右傾化など存在しない

このような事実を保守層はどのように隠してきたのでしょうか?

お察しの通り、「お花畑の左翼」の主張を批判、非難してやり過ごしてきたのです。

保守、左翼という対立軸の中で、相手の主張の間違いをあげつらっておけば短期的には誤魔化すことができます。

やたらと叫ばれた安保法制が可決する時期に、これは顕著に表れました。

保守の主張

世界的にテロの勃発、中国の脅威が現実に迫ってきている。

その為、日米同盟を強化してそれらの脅威に対応する必要がある。

左翼の主張

自国の戦争ならまだしも、米国の戦争に巻き込まれ、戦争のできる国になるとはけしからん。

と簡単に言えばこのような主張でした。

保守の主張はいつもどおりの日米同盟の強化でしたが、米国が「世界の警察官ではない」と言った後に日米同盟の強化だと言っても、当時の米国の情勢を考えれば、

「日本の面倒を見ている余裕はないから、集団的自衛権を認めて米国の負担を軽くしてね」ということが明らかでした。

ここにも、思考停止的に”パパについていけば何とかなる”という発想が垣間見えます。

一方の左翼は、米国が内向きになってさらに世界の警察官を辞めたと言っているのに

「米国の戦争に巻き込まれる」、「戦争ができる国になる」という的外れな主張をしていたわけです。

一般的に「論点ってそこなのか?」という感覚が芽生えた一件でもあったのです。

保守はアメリカ追従路線でなんとかなると思い、左翼は戦争反対と叫ぶばかりの、駄々っ子同士の兄弟喧嘩ぐらいにしかなっていなかったのです。

このことからわかる我が国の保守には特異な傾向があります。

それは、

「ナショナリズムの肯定がナショナリズムの否定となる」

ということです。

先ほども書きましたが、アメリカ追従路線を突き進むということは、真に自国で独立するという発想はそこにはないわけです。

なぜなら、アメリカ追従路線の為に、グローバリズムを推進し、新自由主義的な政策を肯定し、他国に市場を明け渡すなどということであれば、これはどう考えても、愛国心に基づく選択とはならないからです。

つまり、表向きナショナリズムを肯定する形で、国のあり方を変えていき、結果ナショナリズムに基づく選択をしないことが、”保守”ということになってしまっているということです。

これは、最初からナショナリズムを否定している左翼よりも質が悪いのです。

左翼の主張はお花畑ですから、大抵の日本国民は失笑に付すことができます。

しかし、保守の主張というのは、一見現実を踏まえた合理的な選択であるかのように見えてしまうのです。

結局、抜本的改革とかいって保守の主張に一方の左翼が的はずれな指摘をしてしまうのも、保守思想の根本に、”日本を否定する思想”が組み込まれているからなのでしょう。

しかも当の保守層はそれに気付いていません。

また左翼層は保守層の主張を一部認めてしまっているということになります。

したがって、我が国における”保守”が活躍することは右傾化ではなく、左翼以上に左傾化しているということになってしまうのです。

国境にこだわらない=51番目の州でも問題ない

我が国のいわゆる”保守”の論理を延長すると最終的に我が国はこのようになります。

「日本版アメリカ」

つまり、併合や51番目の州ということに着地してしまうということです。

我が国においては、国際協調、国際化、グローバル化という言葉は全て「アメリカ化」を指しています。

そして、二度と過ちは繰り返しませんという言葉は、「二度とアメリカに逆らいません」という意味になります。

「国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」

という発言をした総理大臣がいますが、この総理大臣というのは我が国では、「保守」から支持を受け、ナショナリストと言われています。

この国境や国籍にこだわらないという感覚が、戦後の保守の核になっています。

戦前は国境や国籍を重視し、ナショナリズムを醸成したが敗戦を喫し、惨めな自分をどうやって慰めるかという命題が、「国籍や国境にとらわれない」という発想だったのです。

その後、我が国は、自由貿易、日米同盟、朝鮮戦争の特需、民間に全リソースを配することで、高度成長、バブルを経験したのでした。

この時代を”成功体験”にしていた世代は時代が変わっても(冷戦が終わっても)、変わったことに気付かずに、日米同盟の強化、自由貿易、構造改革と言い続けることにならざるを得ません。

アメリカ追従が亡国への一歩

確実に現在は、パラダイム・シフト、つまり時代の歴史的転換期です。

歴史的転換期というのは教科書に必ず載ります。

ヨーロッパでは、反グローバリズムの動きを見せブレグジットが起き、アメリカではトランプ大統領が誕生しました。

先日のフランス大統領選でも、反グローバリゼーションを唱えるルペン氏が頭角を表し、マクロン氏と接戦を繰り広げたということは、確実に世界はグローバリゼーションに傾きかけた方向を是正する方向に向かっているのです。

それでも我が国の主流派は、グローバリズム万歳といった方向ですし、反グローバリゼーションを唱える目立った政治家はいません。

ということは、我が国はまた周回遅れでグローバリゼーションを推進する可能性が非常に高いということになります。

何故なら、アメリカがグローバリゼーションから方向転換し内向きになったとしても、米国の製造業からしてみればドル安が良いということになるので、日本の市場を奪うという点では、米国はグローバリズムを維持するでしょうし、我が国は英語化推進、自由貿易、規制緩和など、グローバリズム路線を推めていることから、アメリカからしたら、「自ら市場開放してくれるなら断る理由はない」となるのは、必然です。

気付いた時にはもう遅いといったことになることは明白でしょう。

しかし、我が国としては中国や北朝鮮の脅威などを考えたら、仮に軍事費を現在のGDPの1%から5%に増やしたり、憲法9条の改憲をしてみたり、核を持ったとしても既に意味をなさない可能性もあるのです。

アメリカとしては日本領内の無人島ごときどうでも良いと考えるはずですし、何より、アメリカ国民が他国の紛争や戦争でアメリカの軍人が死ぬことや、それ首を突っ込むことを許しません。

アメリカ国民が許さないから、日本は自分で守ってね」とアメリカが言ってきたら我が国はどのような対応ができるのでしょうか?

何もできないでしょう。

現在はアメリカの属国ですが、こうなればアメリカのみならず、中国の属国になる可能性が極めて高くなります。

アメリカ追従路線を走ることが危険」というところまで既に来ているということがどうしても我が国の保守層には理解ってもらえないようです。左翼層も同じですが…

因みにこのシナリオはグローバルトレンド2030の中で米国の国家情報会議がひとつのシナリオとして発表した結末です。

まとめ

既に我が国の国会、政治体制は茶番劇であることに気付いているかもしれません。

このブログを読まれる方は恐らく、森友問題、加計学園の問題など、バカらしく感じていることと思います。

また、選挙でも本当に誰にも投票したくないということもあるかもしれません。

左翼層もたまには良いことをしますが、いつも最後はこちらがキョトンとしてしまう結論を用意してくれますので、話になりません。

左翼層はさっさと我が国のトップがスパイの孫という事実を

公表すれば良いのに何故しないんでしょうか?

歴代日本人スパイが大物ばかり〜アメリカに媚びた日本人〜

どうせ叩くなら、徹底的に引きずり降ろせば良いものを、それをしないというのにはもちろん理由があるのでしょう。

政治家、国会には何も期待できません。

保守層にも左翼にも期待できません。

私は、最後の砦である「日本国民」に期待しているのです。

最近では天皇陛下の譲位の件がありました。

女系天皇、女系宮家の創設云々の話もいまだ残っています。

2700年近く男系で皇統が断絶しなかったというのは、過去の日本国民の努力によるものだと私は考えています。

日本国民が改造された今、我が国に残されている歴史的な連続性は「皇室」と一部の「闘う日本国民」しかないのです。

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