教育と洗脳された論理

教育と洗脳された論理

当記事は、2021年2月14日にnoteに投稿した有料記事を無料公開するものです。

https://note.com/chikougouitsu/n/ne4202710bc49

教育とは何でしょうか?

現在、でっち上げ新型コロナウイルスのや自由貿易協定の締結というテロリズムの中で、今後の学校教育のあり方も変化していくであろうと推測しています。

私達が、教育と呼ばれる「一定の価値観」を形成させられる過程において、6、3、3と12年間、大学まで入れれば16年間という期間はどれほど長いもので、またどれほどの無駄があるのでしょうか。


ブリタニカ百科事典では、

教え育てること。知識,技術などを教え授けること。

人を導いて善良な人間とすること。

人間に内在する素質,能力を発展させ,これを助長する作用。人間を望ましい姿に変化させ,価値を実現させる活動。

と、このように解説されています。

文部科学省では教育の目的としてこんな風に規定されています。

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

となっていますが、果たして実際の運用とどれほど乖離があるのでしょう。

この記事では、教育の本質について考えてみたいと思います。


目次

洗脳と教育は同じ

重要なことは何も教えないものが教育

洗脳された思考で作られる論理

論理とは連想と繋がり

まとめ

洗脳と教育は同じ

結論から言えば、洗脳と教育は同じです。

自由、平等が絶対的な価値観として位置づけられている、現実との矛盾がまさにそれを象徴しています。

人間は皆平等、誰もが自由に選択ができる、人生は素晴らしい、あるがままの世界が素晴らしいといった全くの詭弁が幼少期から教えられます。

このことから、教育とは事実を教えるものではなく、他人に対して意図的な働きかけを行い、対象を望ましい方向へ導く活動と言えます。

教育が事実を教えるものであるならば、民主主義国家なのだからひとりひとりが政治を考え、議論し、素晴らしい国家にするべきであるぐらいのことは言えるはずです。

例えば、

日本という国は、敗戦以来、米国の属国と化しており、日本人の富は宗主国である米国に搾取され続け、高額の税金を支払わされている。

日本の政治家は米国から雇われた諜報機関の協力者と財界の囲いしか存在せず、与野党ともに、目指すゴールは世界統一政府と超監視社会の実現であることは同じなのである。選挙や議会はセレモニーであり、プロレス劇場であって、国民が議員を選んでるわけではない。」

このようなことは、事実そうであってもこれを口にしようものなら、「不謹慎」あるいは「偏見や妄想」と評価されます。

この不謹慎や偏見、妄想と大多数が評価するように仕向けているのが、「教育」とするならば、教育とは事実を教えることではないと言うことができます。

教育とは「個人の才能を引き出すこと」ではなく、それは建前で、意図した方向に対象を向かわせるための活動、あるいは”意図しない”方向に向かわせないための活動とも言えるでしょう。

それは、教育の名を借りた「洗脳」です。

そもそも、教育を「個人の才能を引き出すこと」とはオックスフォード辞典でも書いてはいないのです。

「a process of teaching, training and learning, especially in schools, colleges or universities, to improve knowledge and develop skills」

オックスフォード辞典

思想改造の心理という本を書いたロバート・J・リフトン

は、洗脳には8つの要素があるとしています。

1. 環境のコントロール

2. 密かな操作

3. 告白儀式

4. 純粋性の要求

5. 「聖なる科学」

6. 教義の優先

7. 特殊用語の詰め込み

8. 存在権の配分

学校という枠に閉じ込め、教義を通して誘導、宿題、課題とを生徒に課して、皆の前で吊るし上げられ、集団主義的に物事を考えさせ、綺麗事で生徒をたしなめます。

優秀な生徒は居場所を与えられ、そうでない者は存在すら認められずいじめの対象になる場合もあります。

科学的なものにこそ、「正解」があるといった常識(偏見)を作り上げます。

調和を乱さず、勝手なことをしない、周りと歩調を合わせるように行動することを「義務教育」でしつけられるとするならば、学校とは「洗脳機関」という表現が出来ます。

もちろん、基本的な文字の読み書きや計算など必要なことですが、その必要なことにも優劣をつけ競争を強いて、成績を付けます。

このような事実を俯瞰して見ると、教育機関とは権力から与えられた権威を笠に着て、「正しい」という概念を叩き込むことに終始しているように見えます。

重要なことは何も教えないものが教育

前段で書いたように、教育は洗脳であるということですが、もうひとつ重要なことがあります。

それは、教育からは「学び」を得られますが、洗脳からは「信仰」しか生み出しません。

この場合でたちが悪いのは、学校教育の洗脳には、学びも存在していることです。

全てが洗脳というわけではなく、学びも与えつつ、権威に対する反応を仕込まれているということです。

その反応は、今まさに目の当たりにしている、「大衆の偉い人の言うことが正しい」として思考しない現実です。



そして、その権威は教義、ドグマは教えても、「重要なことは一切教えない」ということです。

例えば、「通貨発行権」なんてものは正確に教えることはありませんし、日本が英国の属領で、米国の属国で、あらゆる自由貿易協定が格差を与え、貧困を深刻化させる条約であることなどは絶対に教えてくれません。

分断統治」なんて言葉も教えてくれないでしょう。

私は、10代の頃に漠然とした疑問をもっていたものでした。

「なんで、学校は本当のことを教えてくれないんだろう」

と。


私は教師からしてみれば「なんで、なんで」といちいち突っ込んでくるウザい生徒だったのでしょう。

そりゃ、教師も知らないんですから。

私がいた小学校は日教組よろしく、国歌を歌ってはいけない学校だったので、「なぜ、国歌を歌ってはいけないのか」を教師に聞いて回るということをしていました。

単純に疑問でしたから。

また、君が代自体に様々な見方や起源があることは当時は知りませんでした。

逆に考えれば、重要なことを教えるということは、支配する者にとっては、「大衆に弱みを見せることになる」ということになります。

このことから、支配は教育によって担保されるということが言えます。



そして、権威は教育を司る力を権力から与えられるということになります。

私の中学校の頃の歴史の教師は骨のある方で、今はどうか知りませんが当時は絶対に言ってはいけない「人生は戦いだ」ということをこの言葉のまま授業で諭してくれました。

当時ならバレたら即クビであることは間違いないレベルの言葉のようでした。

その言葉ばかりが、私の記憶に忘れられないこととして存在しています。

洗脳された思考で作られる論理

そのように教育された思考回路は、正解を求めるようになります。

正解は、先生が(権威)教えてくれると考え、逆に自分が考える必要はないと、他者に依存する意識になっていくのです。

そのような社会で求められる説明の仕方というものは、「論理的」な姿勢ということになっています。

論理的思考というのは、現在では、

結論と根拠」あるいは、「結論と方法

のセットで認識している人が多いように思えます。


例えば、官公庁のデータや有名大学が発表するデータを根拠として、提示し、まるでそれは「客観的に証明」された根拠として社会的に機能しています。

しかし、よくよく考えてみると、「客観的に証明」「科学的に証明」されたものというのは、時間の経過によって覆ることも多くあります。


科学的証明なのに、また客観的証明なのに、時間の経過によって結論が覆るというのは、一体どういうことなのでしょうか。

客観的証明、科学的証明をしたものが、実はそうではないということは、それは、現在で言うところの「科学的証明」でも、「客観的証明」でもなかったということであって、論理的思考でもなかったということになるはずですが、現実にはそうはなりません。


そんなことを言えばきりがない、とりあえず権威の示すデータを根拠として折り合いをつけるという方式もあるのでしょうが、それこそが学校教育の弊害であって、自ら思考しないことで悲劇を招く結果を生み出しているのです。

よく、「論理的思考を鍛える」「論理的に話すには?」といったタイトルの本が本屋によくあります。


これらの本に共通するのは、「なぜなら」という理由を補足して相手に納得させる説明をしなければ論理的ではないといった言い方をします。

だからこそ多くの人が「ソースは?」「証拠は?」、「エビデンスは?」となるのも無理もないのです。



これまで、ロジカルシンキング、論理的思考に関する本はコンサルタントが書いた本から流行りだしたと記憶しています。

しかし、これまで説明した、この「事実」を思考することは、「論理的」でも、「ロジカル」でもなく、「妄想」「偏見」と評価されるのです。


つまり、論理も科学的証明、客観的証明を欠いた者が、思考する者を、「妄想、偏見、陰謀論」と断じる奇妙な現象が発生しているのです。

論理とは連想と繋がり

私が考えるに論理とは、根拠を明示することでも、エビデンスを提示することでもありません。

結局のところ論理とは、一歩づつ、前の一歩の上にしっかりと築き上げていき、次に述べる言葉には、前の知識がしっかり結びついていなければならないということです。

どのような言葉でも、全く関係ないことを言い出したら、それまでの言説、文脈や解釈をすべて打ち消すような力が言葉にはあります。

例えば、自由貿易と低賃金労働を考える上で次のような文章があったとします。

「自由貿易協定という他国との条約では、自由という言葉を使いつつも、実際に「自由」な貿易を享受できるのは、モノやサービスの提供を拡大できる大企業のみである。

なぜなら、大企業は生産コストを最大限下げるために、人件費の低い国に生産拠点を移し、そこで生産した商品を安く物価の高い国に輸出し、販売することで物価の高い国の雇用は減少し、逆に物価の安い国の賃金と雇用は上昇する。」

という文章があった場合、先ほどの説明で言えば、これは論理的ではないと言えます。

これを連想と繋がりを意識した文章にすると以下のようになります。

「日本国内の賃金が上がらないのは、雇用が賃金の低い国に流動しているためである。

企業は利益最大化を求め、生産コストを下げるために低賃金労働を獲得したいインセンティブがある。

企業が生産コストを下げて高利益を実現し、それが、賃金に反映されれば良いがそうではなく、株主配当の方に回っている。

企業が低賃金労働を提供できる国に生産拠点を移すことができるようになったのは、株主の要請によって、企業が政府にロビー活動を行い、その国と自国が労働の分野と資本移動の分野その他の分野で自由貿易協定を締結したときからである。」

低賃金労働の問題や、グローバリズムの問題は様々な理由がありますが、ここでは割愛します。

興味のある方はこちらを参考にしてください。

知識と実践と真実と~知行合一~グローバリズムーカテゴリ

あるいは、LINE登録をしていただき、「投稿」からグローバリズムの問題と本質をご確認ください。


どちらも、一定の連想と繋がりはありますが、より強いのがふたつめの文章の方です。

もちろん、読み手の知識量によってはひとつめの文章の方が「わかりやすい」場合もあるとは思います。

ですが、ふたつめの文章には情景をイメージしやすいという特徴があります。

「論理的思考」の誤解があるために、事実を思考することが蔑ろされている背景があるのです。



現実として「事実を認定するのは誰なのか」という問題に影響します。

多くのメディアで、ワクチンの健康被害の情報を抹消する可能性もあり、メディアの社会に対する議題設定機能から、「ワクチンの健康被害など存在しない」という事実が作られることに懸念があります。

Twitter、ワクチン接種に関する誤情報を削除へ

まとめ

「教育と洗脳に大差はない」

「論理的思考の誤解」

「論理的思考とは連想と繋がり」

ということを解説しました。

今後、学校教育は大きく変化していくことでしょう。

子どもたちはテクノロジーに囲まれ、人間的な活動はしなくなるのかもしれません。


恋愛したり、友達と笑い合ったり、イタズラしてみたり、そのような子ども”らしい”活動も、数値で判定されるようになっていき、道徳や倫理も数値化されていくと推測しています。

キャッシュレス化は倫理道徳を数値化する~超監視社会へまっしぐら~

そもそもマスメディアは”報道”機関ではない

参考:理系のための口頭発表術―聴衆を魅了する20の原則ーR.H.R. アンホルト 

思想改造の心理―中国における洗脳の研究

ーロバート・J.リフトン

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