※当記事は2021年6月13日noteに投稿した記事です。
だんだんと暑くなってきましたね。
そんな中、屋外で一人で歩いている時でもひたすらマスクを着用している人達には本当に驚愕してしまいます。
マスクをしない自由は、多数派を作り出すマスメディアの欺瞞と詐欺によって、思考能力を奪われたヒトが奪うという構図になっています。
私のような少数派は奇異の目で見られているのか、ジロジロ見られるときもありますが、そのような思考停止のヒト達に対する怒りや不快感などは既になくなりました。
当初は、非常にイライラしましたし、不愉快ではありましたがある時からまったく感じなくなりました。
というのも、マスク着用を常時行う人達はマスメディアの言説を信じているのだろうし、事実を突きつけたところで理解はできても、社会の同調圧力からマスクを外す勇気がないから、結局は「誰が言うか」ということになり、それは彼らにとっては「マスメディア」ということになります。
恐らくこれは概ね正しいんだろうと思います。
そんな風に考えたらそんな、自分の首を締めることに安心感を抱くヒトに心を害されることにイライラすることなんてバカバカしいと思うようになったのでした。
だからこそ、動物を愛でるような視点でマスクを着用するヒトを見ることで、心の安定を保つようになりました。
女性のマスク着用に関しては仕方ないと思うところはあります。日本の男は弱い者にめっぽう強く、相手を見てモノを言うという情けない男も多くいます。
私の偏見もありますが、見た目を変えるだけで何もしてこなくなるという男を散々見てきましたので、そのように思ってしまいます。
この1年半もの間、PCR検査の問題、無症状感染の嘘、陽性者=感染者という三種の神器がマスメディアを通して社会に垂れ流されました。
いわゆる新型コロナウイルス騒動が始まった当初は、人工呼吸器が足りないだの、突然倒れる人間が続出だのと散々煽っていましたが、その設定はどうなったのでしょうか?
2021年2月23日に発表された数字によれば2020年の総死亡者数は前年より9373人減少したという、マスメディアの報道とは温度差のある数字でした。
空気感染も起きているとは考え難く、その情報の大元を調べれば恐怖を煽ることを手段としていることが見え見えだったのです。
しかし、その情報がどのように消化されるかという問題があり、結局のところゲッベルスが言うように、大衆は最も親しみのある情報を真実と呼び、結局信じたいもの、金の都合、利益、恐怖心などから情報処理、認識が決定されるのです。
社会全体においてその認識の相違は、各個人の分断と差別を醸成しがちです。
いくら「事実」を丁寧にエビデンスレベルの高い情報で担保したとしても、それが多数派の意見でないなら「テレビで言ってない」ということで一蹴され、ひどいときには頭がおかしいといったことを言われたり、ただただその人との距離が離れてしまうといったことに繋がっていくのです。
これは、情報社会の典型的な現象のように思えます。
常時持ち歩くデバイスによって多くの情報を取り入れることができる社会では、各人間の情報量の差異は顕著です。
基本的に人間は自分の信じたい情報を信じますし、好きな情報を集めます。
しかし、そうなることで情報の格差と、今いるコミュニティ内での認識のズレが生じ、その共同体からはみ出していくのです。
これがこのまま進めば、これまでは当然に存在していた共同体に属することで確立していた自我の基盤なるものは消え失せていき、人と繋がることについて必要性を感じなくなります。
その情報デバイスに支配され、またそのデバイスから受け取る自分だけの安心や安堵に侵食されていくのです。
そうなれば、人は本当の意味で一人で生まれ一人で死ぬという現実になるでしょう。
また、事実そのデバイスは監視システムの重要なインフラとして機能しているということになりますから、この環境に、体内チップ、信用スコア、顔認証、マイナンバーと各種情報の紐付け、電子マネーなどが人々の身体に接続されれば、一望監視システムであるパノプティコン社会が出来上がります。
スーパーシティ法案や今回成立した国民投票法改正案もこの流れを汲むものです。
過去の記事でも書きましたが、この世界は監獄となるのです。
今更、驚くこともありませんがこのためにマスメディアは恐怖を煽り、大衆が自ら監視強化を望む方向に誘導しているのです。
それは、最大多数の最大幸福を大義名分とした支配層の権力基盤の固定化です。
この先、日本はワクチンパスポートを導入することになるでしょうが、そうなった場合、ワクチン拒否をすることで行動が制限され、移動の自由を侵害されます。
しかし、日本の法制度の運用を見ていると、これを拒否することは、権利の濫用として認定しかねません。
その上で、ワクチンを接種しない自由を認める代償として、行動制限をするという論を成立させるのではないかと推測しています。
仮にワクチン内にハイドロジェルやナノチップといった遠隔デバイス個体識別装置が混入されているのだとしたら、正しく「この巨大な監獄を移動、行動を許された家畜」として、人間としての尊厳をも喪失した動物になります。
個体識別装置が入っていなかったとしても、GPS機能のある情報デバイスは持ち歩くわけですから、事実上家畜ですが、それでも、「選択権のある家畜」で済みます。
支配層がその選択権を愚かな大衆に与えたままにしておくとは、ワクチン接種の趣旨を考慮すると考えづらいとは思います。
今更言うまでもありませんが、ワクチン接種に予防効果も無ければ重症化しないことを期待できるものでもありませんし、有害物質です。
コロナのためのワクチン接種ではなく、ワクチン接種のためのコロナであることをご理解いただければと思います。
ワクチンを接種しないことは、事実上、人格権の内容となり得ます。
この人格権を守る、ひいては自分自身の存在を守ることを目的にワクチン接種をしないという選択をしたのなら、それは「自由な意思選択と引き換えに他の選択権が制限される」として、「制限された自由人」ということになってこの世界が監獄となります。
ワクチン接種をしたのなら、「人間の尊厳を失うことと引き換えに、行動の自由を確保することができる
」といった「自由な囚人」ということになります。
今回のいわゆる新型コロナワクチン接種が人間の尊厳を失うことには繋がらないという反論は、この接種状況が事実上の人体実験であることを踏まえれば、接種者は「検体」として自らの身体を差し出すということになるわけですから、ニュルンベルク綱領の趣旨からしても尊厳、人が人として持つ最大の選択権をマスメディアやそれに関わる医師などに移譲、信託しているということにもなるので、これが尊厳の喪失でなければ何なのかと言えるほど明らかなことです。
これが理解できなければ、相当鈍いのでしょう。
「自由な囚人」と「制限された自由人」。
結局、監獄であることには変わりはありませんが、そもそも自由というのは自分の意志を貫くこと、自らの行動を内心と一致させることです。
他者の権利を侵害しない限りにおいて、その自由な選択の中でワクチン接種をすることは大いに認められるべきでしょう。危険を認識しているのであれば。
あなたは、どちらの自由を取りますか?
また、どちらの不自由を取りますか?
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