没落した叡智の行方〜破壊された権威への依存〜

没落した叡智の行方〜破壊された権威への依存〜

前回の記事で、無知の支配について書いてみましたが、改めて読み返してみたら叡智の没落については深く掘り下げられていなかったように思えました。

無知の支配と叡智の没落

叡智が没落することは、現在進行系である国家の没落と無関係ではなく、また文明が自ら破滅に向かう過程と互いに影響しあっています。


今回の記事は前回の続編になり、没落した叡智の行方について考えてみたいと思います。

無知の支配の中で、無知とは「無知であることを知らないこと」と書きました。

この状態では、無知とは「質問ができない状態」をも指すことになります。

無知であることを知らないということは、見当違いの疑問が浮かび、適切な質問ができません。


よく「質問力」などと言いますが、適切な質問をするためには、認識、理解、過去の情報や知識との対比や、それを踏まえた別の提案を行う必要があります。

事実誤認、情報不足、知識の誤謬が多ければ多いほど、正確な現状認識、現実そのものの認識を誤り、結果として「思考停止」してしまうということになりがちです。

もちろんこの場合、当の本人は思考停止とは全く思ってもなく、他者の指摘や理解こそが間違っていると考えてしまったりもします。


この現象は、意外にもいわゆるB層やノンポリもそうですが、それ以上に政治経済、その周辺知識を取得している人に多く見られます。

個人的な経験ですが過去に出会ったそういった知識を持つコミュニティの人達と会話をする中で感じたこと、知ったことはこれらのことでした。


なぜ、勉強しているのに思考停止しているといった一見矛盾にも見える現象が発現するのかと考えたとき、間違いないと言えるのは、「依存」です。

これこそが叡智の没落に寄与した最大の要素となります。

人間誰しも、何かに依存するものですがこの場合では、知識に依存すること、また知識提供者に依存することを指します。


知識はそれだけで素晴らしいものですし、誰からも奪われず、お金で買うことができないかけがえのない存在です。

修得しなければあらゆる知識は「情報」に堕してしまい、個別では無意味な存在になります。



ところが、「知識に依存している状態」は知識に対して疑問はもちろん、多様なケースで検証するという作業を疎かにし、傍から見れば、知識、理論を信仰しているようにしか見えなくなる程に、人が知識に吸収された言わば「容れ物」のような知識の没し方が垣間見えるのです。

先日、大西つねきという人の発言をめぐって短文の記事を書きましたが、この件にも説明した「知識の依存」が見て取れました。


この件も様々な見方があり、世代間の分断工作、スピン報道、SDGs、優生思想、プロレスなどといった見方がされていますから、一概にこれが正しいという言い方はできませんし、そもそも正しいことなどありません。

この件の経緯を観ていると、彼を批判している人達というのは、言葉狩り、思想警察、浅い思考といった物事の表面しか見ない傾向が散見されました。

また、「「若者を生かすか高齢者を殺すか」といった議論が出てくる時点でその社会は終了であって、罪のない人間の生死を第三者が采配するというのは無差別テロと同じ」といった意見もありました。

様々な意見を観て、私が思うことは「現実の認識に大きな乖離がある」ということです。



発言の表面や言葉狩りのような話は論外ですが、それを担保するのが浅薄さや軽薄さといった知識に対する不誠実さです。

言動に慎重さがないというのは私も大西氏もそうかもしれませんが、現実への認識が共有されていれば、大西氏のことをそれほど知らなくても、その慎重さの欠いた言葉の真意は伝わります。

現実の認識に大きな乖離があるというのは、「「若者を生かすか高齢者を殺すか」といった議論が出てくる時点でその社会は終了であって、罪のない人間の生死を第三者が采配するというのは無差別テロと同じ」といった意見に如実に現れています。



これを言ったらオシマイですが、現在の日本社会も、世界も「終わっている」という認識が私にはあります。

終わっている現状からどう考え、どのように行動するかが当ブログの主旨でもあります。

ですが、この社会が「終わっていない」という認識で、その前提に立って話をすればこのような反論というのはある意味では当然なのです。


70年代ぐらいに大西氏がこの発言をしていたら私も批判的になっていたでしょう。

つまり、現代社会、日本、世界の現状、認識、さらに言えば、「世界観」に絶望的な乖離が個々人の間に存在しているために「何を言ってもわからない」という現象が生まれます。

現実を正確に見ようとすればするほど、目を背けたくなる絶望を連続して経験することになります。

そのような不愉快な情報を「知識」に昇華させるには、個人の気力や体力が必要となりますが、誰が好き好んで絶望的な現実を目の当たりにしたいのかと言えば、そんな特殊な人間は極々少数派でしょう。と言うか嫌なはずです。

私も嫌でした。



人が知識の容れ物と化してしまうことで、人は考えることを止め、自分の知りたいことのみを知ろう
と知識提供者の提供する情報を買い集め、動画コンテンツなどを買い漁ります。

知識への依存はこのような過程を経て、このときには他者に対する傲慢さも目立ち始めます。

大局的な見方をすれば知識への依存は「権威主義」的な発想です。



でっち上げコロナ騒動以前にも経済学者や大学教授、医者、ジャーナリスト、作家、学者といった専門家や権威の胡散臭さや欺瞞は垣間見え、当ブログでも批判してきましたが、知識への依存は権威主義を下部構造とした世界観の違いが、人々の中に義務教育や受験システム、マスメディアなどで形成されているように観えます。

専門家や権威はなぜ間違えるのか?〜”専門的には”の罠〜

複合的に思考できない専門家という人達

「根拠」よりも「合意」で成り立つ社会

主流派経済学は世界レベルの「嘘」を生産している

日本に限りませんが、支配構造の内側にある教育システムは、基本的に権威に対する反応を教育する機関とも言えますし、子どもたちが権威に対して如何に従順になるかを競わせるシステムとも言えます。


そして、真に重要なことは教えられず、歪な構造の中で無知なエリートが誕生します。

無知なエリートは秀才であり、優等生ですがこの構造の中でしか機能しない上に、植民地のエリートですからその構造に気付いたとしても「何もしない」選択が合理的判断と思うようにプログラムされているために、政治家だろうが、官僚だろうが、大学教授だろうが平気で同胞を追い込めるのです。

現状の教育システムこそ優生思想が念頭に置かれたシステムであることは明らかです。


そのようなすべてを知ったような「知識人」が創る社会で叡智が没落しない理由を見つける方が困難であると私は感じます。

「すべてを知り、すべてを理解しているのは、愚か者とペテン師だけである。」

アントン・チェーホフ



没落した叡智は、「言葉」とともに抹殺され、思考はおろか知識の習得すら許されない社会へ、跡形もなく雲散霧消するでしょう。

それを歓迎する世界観を持った無知な大衆は、正義を旗印に必ず叡智を攻撃してきます。

しかし、その時、彼らは自分が何をしているかわからない状態になっているのではないでしょうか。


エドマンド・バークは「フランス革命の考察」で言いました。

「知性は素材を生み出すことは出来ない。素材は自然あるいは偶然の賜である。
知性が役に立つのは、その素材をいかに信用するかという点にある。」

無知の支配は人間性を破壊します。

知を守るには、人間性を守らなくてはなりません。

知を守るとは自分を守ることであり人類を守ることです。

でっち上げコロナ騒動の今後の予定について発表されているようなのでご確認ください。



この情報はフェイクニュースだったようですね。

しかし、実にうまくできているシナリオですので、この情報は参考までに保留しておくべきかと思っています。

現在の映像技術、音声技術を考えるとデマの根拠とされる音声の違いなどはいくらでも捏造できますし、実際に行われようとしている超監視社会、NWOという方向性は変わらないわけですからせっかくなので利用しておきましょう。

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