権威はマスク、ソーシャルディスタンス、PCR検査、ワクチン、5G に納得できる根拠を示さず、マスメディアはその権威を起用し、財界はそうなるようにマスメディアに忖度させ、視聴者たる庶民、国民はそれを真実と思い込みます。
マスメディアが垂れ流した情報は、真実という衣を纏い、「マスメディアの流した情報」を根拠として、与党も野党もない政治家連合によって、一定の方向性を示しながらラディカルな社会変革を成し遂げようと躍起になっています。
マスクの予防効果、ソーシャルディスタンスの効果、ワクチンの効果を権威同士が互いに「科学的根拠」を示しながら対立する構図は、如何に「知性の破壊」が進んでいる状態かを如実に示してくれています。
「このままいけば死者は40万人」と感染症の「統計の専門家」がマスメディアを通した「脅し」は功を奏し、自粛に努めた一般大衆は苦しい経済環境の中で生活しましたが、蓋を開ければ死者は1000人にも満たない中、感染者の増加を企図する言説も見受けられ、権威の存在価値は「大衆を欺く為のツール」にしかなっていません。
新型コロナ感染者・死者の「増加ペース」世界中で日本だけ落ちず
同様に、PCR法のネガティブ情報はマスメディアでは一切明かされず、PCR法発明者のキャリー・マリスは発明者としての意見を主張していたところ急死を遂げ、アンドリューカウフマンや大橋眞氏のYou Tube動画は削除対象となるこの現実は、知性の破壊はもちろん「言論の破壊」をももたらし、更に「人間性の破壊」まで辿り着くことになります。
学者生命を賭けてコロナ騒動の真実を発信する日米の二人の専門家:アンドリュー・カウフマン博士と大橋眞名誉教授
「専門家」とは一体何なのでしょうか。
当ブログでも権威、専門家批判は行ってきましたが、統計にしても医療にしても経済にしても、専門家と呼ばれる人間というのは「文化、文明の破壊者」になっているのではないかと思う今日此頃です。
知性の破壊が人間性の破壊にまで辿り着くとは、その知性の破壊という手段をもって、SDGsやデジタルレーニン主義、NWOという動機が満たされることになります。
SDGsやデジタルレーニン主義、NWOなんてのは「大衆の家畜化」そのものでありますから、前提として知性の破壊は達成されていることになりますし、現在そうなっています。
知性の破壊は同時に、「無知が支配する社会」を実現させます。
無知が支配する社会では、知に対する喜びは演出され、あたかも知識を持ったと錯覚することで成立し、その浅薄な知識を集めた軽薄才子は、その社会で評価され、人々の尊敬を集めることで大衆を導いていきます。
実際には、「何も知らない人間」がです。
無知とは、本質的に「無知であることを知らないこと」です。
知識とは集めれば集めるほど知らないことも増えていくものですが、知らないことを知ろうとする動機次第では、知らないことに気付けないという状態になったりもします。
例えば、知識を得る動機が「お金」のみでは、その対象にまつわる知識とその周辺の知識で満足し、実際に事に及んで、お金を稼げればそれは成功体験となり、インプット、アウトプットを繰り返していくようになるものです。
個別で見た時に、個人の価値観は自由なわけですから、それ自体は間違ったことでもないですし、批判されるようなことではありません。
しかし、全体で見た時にこのような価値観をもつ人間が支配的になれば当然、「お金という価値観が最上位」になることは言うまでもないでしょう。
そのような人間の集団が社会を支配するということは、お金以上の価値観をもつ人間、集団をお金を理由に社会からパージさせることができ、またお金に繋がらない知識以外は下等と見做す可能性も否定できません。
お金に繋がらない知識とは例えば、
「哲学、思想、古典、文学、民俗学、歴史」
などが典型でしょう。
一言で言えば、「お金という価値観を最上位にする為には障害となる知識」と言えます。
「言葉」を深堀りし、多大且つ様々な語彙を駆使して表現された主張、意見、論説はそれを読んだ者に対し、「疑問」を投げかけます。
また、その疑問は自分を見つめる契機になったりもします。
人間が疑問に対して向き合うとき、必ず思考を巡らせることになるでしょうが、これを「お金に関係ないなら考える必要はない」、「所得に影響しないならどうでもいい」と考えるような人間が増え続ければ、知識は「所得の増加を実現する為の手段」と”社会的に”定義されることになります。
前段で書いた投げかけられた疑問に対し、その疑問に真摯に向き合う人間をなくす、極限まで少なくすることができれば、学問を習得する動機は常にお金、ビジネスとなり、義務教育はもちろん、教育そのものがお金儲けの為の手段となります。
それが、小学校低学年からの英語学習であり、大学の研究に予算が付きづらい状況、大学院まで出ても就職先もなく、ワーキングプアになってしまう状況を生んでいるのだろうと思います。
もちろん、デフレ下における緊縮財政やグローバリズム信仰における新自由主義政策が大きな原因になっていますし、サッチャー政権以降の政策転換とシカゴ学派の台頭は無視できません。
新自由主義は共産主義として機能し、資本主義は社会主義であるために新自由主義的イデオロギーの発展に寄与します。
それが今日の「無知の支配」を生み出した大きな枠組みであり、「英知の没落」という結果を生んだ、文明の末期症状なのと考えています。
オズヴァルトシュペングラーは西洋の没落で言いました。
「文明の象徴は世界都市であり、それは自由な知性の容器である。それは母なる大地から完全に離反し、あらゆる伝統的文化形態から解放されたもっとも人工的な場所であり、実用と経済的目的だけのために数学的に設計された巨像である」
スーパーシティのことでも言っているのかと思うほどです。
デジタルレーニン主義、SDGsといったNWOの実現をすることに狂気を感じるのは、この数学的帰納法のような考え方や全てを科学、数字で表現、証明できるといった傲慢さを今日では「理性」とされていることです。
現代社会の狂気は、無知の支配と英知の没落という現状を歓迎し、理知的に、合理的な選択によって自らの運命を短縮しているというジレンマを抱えながら、辿ってきた経路に依存する事実に目を瞑り、誤魔化すことで成り立っているように私には観えます。
ミシェル・フーコーの言葉を引用すれば、
「狂気は野生の状態では見出されない。狂気は社会の中でしか存在しない。狂気はそれを孤立化する感受性の諸形態、それを排除し或いは捕捉する嫌悪の諸形態の外に存在するものではないのである。」-狂気は社会の中でしか存在しない-
ということなのでしょうが、抽象度が高くてあまり伝わりそうにありません。
「社会のあらゆる狂気に抵抗する狂気」とでも言えば、吉田松陰ぽくなるのでしょうか。
民主主義という欺瞞の政治システムの終焉は、あらゆる狂気における無知の支配と英知の没落によって、デジタルテクノロジーを土台とした共産主義の出現によって、空っぽな言葉として抜け殻がそこに置かれることになるのでしょう。