憲法の柱である「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」
いわゆる「常識」ではありますが、我が国ではこっそり基本原理がないがしろにされようとしています。
世間では安保法制や特定秘密保護法などが憲法違反だと言われていることが多いように思いますが、そのことではなく、「グローバリズム」という考え方、あるいはその方向性が”憲法違反”なのではないかと考える次第です。
この記事では「なぜグローバリズムが憲法違反なのか?」
また、そうなってしまう「日本国民の病」について考えてみたいと思います。
そもそもグローバリズムとは?
目次
グローバリズムとは「国境を越えたヒト・モノ・カネの自由な移動」のことです。
世界中の人々が国境を気にせず自由に動き回れるといった、人類みな兄弟的な雰囲気があります。
しかし、あくまでも自由な移動は「ヒト・モノ・カネ」です。
言語や文化、宗教などその地域に土着した「慣習」や民族的なカラーなどは基本的に想定されていません。
つまり、「グローバリズムです、地球市民です」と言ってもこのグローバリズムという考え方は、
「経済第一」の協定なので、人の心の垣根については「受け入れろ」と強制力が働かざるを得ない考え方なのです。
こういうことを言うと、グローバリズムは時代の流れだから仕方ないと反論されるのが常ですが、別に現代のグローバリゼーションが人類最初のグローバリゼーションというわけではありません。
第一次世界大戦あたりの時代も世界はグローバル化していたと言っても良い状況です。
それについては以下の記事でまとめてあります。
カテゴリ:グローバリズム
当時も資本移動が活発に行われ、イギリスが事前に保護貿易で生産性を高めた上で、その後インドと自由貿易協定を結び輸出攻勢を掛け、インドから所得を吸い上げていきました。
行き過ぎたグローバリズムは武力を使うこと無く、他国を政治力で植民地化させてしまうのです。
グローバリズムを達成させるにはルールを統一化しなくてはいけない
ヒト・モノ・カネの自由な移動の為にはどうしても「ルールを統一させよう」という意思が働きます。
例えば、ある薬品がA国では違法でB国では適法ということになればB国の企業はA国に輸出しても”B国の法律上売れない”ということになるからです。
各国の法律がヒト・モノ・カネの自由な移動を制限してしまうことで、グローバリズムという考え方が成立しないことになるのです。
こういったことを避けるために「協定」、「条約」という約束事が当事国の間で交わされることになります。
ここで問題なのが「どこの国のルールに合わせるか?」という問題です。
そこで政治力が働きます。通常その時代の「覇権国」のルールに合わされます。
個別で考えれば、例えば、軍事安全保障をアメリカに握られている、食料自給率が低い、資源も自国の領土内で産出されないといった場合には、この事実そのものが交渉力の強弱に直接関わってしまうということになるのです。
この場合で言えば、この軍事安全保障を握られている国は、強気の交渉は制限されてしまいます。
すると、アメリカの”提案”する内容を受け入れざるを得ないという結果になります。
このような状況でできた協定、ルール、条約が毎度国民の利益に適うのかと言えば全てがそうなるとは限りません。
民主主義で選ばれたはずの政治家が、国際協定によって民主主義を逸脱してしまうということになりかねないのがグローバリズム、グローバリゼーションということになってしまうのです。
先ほども書いたように、条約、協定は国内法に優先します。
条約ををベースに制定された法律が、後に国民の利益にそぐわないとなって国内法を元に戻そうとしても当然のことながら、通用しません。
TPPでもNAFTAでも”ラチェット規定”が主となっていますし、仮に出来たとしても”ISD条項”があるので
結局のところ元に戻すことでそれ以上の不都合が生じることで、”変えられない”となってしまうのです。
ラチェット規定というのは、一度決めたら逆行する変更を認めないという規定です。
一度決めたら変えられないということは、一発勝負であり、試すことすら許されなくなります。
ISD条項というのは、例えば、アメリカの企業が日本に何か物やサービスの輸出をした際に、日本国内の法律、規制によって、そのアメリカの企業が利益を受けられなかったとする時に、訴えるための機関です。
要は「日本の規制のせいで儲けられなかった!訴える!」
ということができる条項です。
それが行われるのが投資紛争解決国際センターというIMF傘下の国際機関です。
密室裁判の上、判例に拘束されません。更に裁決も原告の”利益”が損害されたかどうかでしか判断しないのです。
ちなみにアメリカは無敗です。
これは正しく民主主義、国民主権の否定ですし、もっと言えばグローバリゼーションを推進する政治家、公務員は「憲法違反」ということになってしまうのです。
グローバリズムが憲法違反なら国民はどうするべきなのか?
グローバリズムは単なるイデオロギーです。
主流派経済学を根拠とした、新自由主義の根幹となるイデオロギーと言えます。
誤解を恐れずに言えば、それでも良いという人がいればそれはそれで良いと思います。
価値観ですから、私自身、自分の思想を他人に押し付けようとは思いません。
しかし、”物事の事実を知らずに”では後悔する可能性が極めて高くなるのです。
事実を知って、こういう可能性があるかもしれない、違った視点もあるなど、そういったことを考えた上でなければそれは”自分で決めた”ということにはなりません。
知った上でなければ、それは「誘導された」ことと同じとなります。
誘導されたとなると私個人としては、恥ずかしいという感情になります。
だからこそ、恥ずかしくないようにしたいと思うのです。
脳内お花畑、デフレ、グローバリズムの関係
しかし、何故我が国では、ユーロ圏やアメリカでグローバリズムに対して懐疑的な潮流が生まれているのに未だグローバリズムが推進されているのでしょうか?
私は以下のように考えています。
第一に”お花畑的日本人”が主流であるということが挙げられます。
我が国は敗戦後、GHQの占領政策によって改造されました。
WGIP、3S政策、パネルDジャパンという三段構えで、日本国民が、”覚醒めないように”図られたのです。
しかし、戦勝国としては当然かもしれません。
この時は日本人の”素直さ”が仇となったのでしょう。
昨日までは鬼畜米英と言っていたのが、今日になったらギブ・ミー・チョコレートと言えてしまう、良く言えば適応性、順応性の高さは驚愕モノです。
生きるためには仕方なかったのでしょうし、仕方ない面も多々あると思いますが、その後そのまま隷属してしまうのかと私は悲しく思ったのです。
この占領政策で脳内お花畑に改造された日本人は、悪い意味で楽観的になりました。
冷戦ということもあり、ソ連の隣国であることから早期の復興を許され、それを自信にし、バブル崩壊してデフレが20年継続しても”潜在意識的に”なんとかなるだろうと感じてしまうのではないかと、社会を観ててそう思うようになりました。
為す術のない人間は、「殴られてもわからない」のです。
お花畑の脳内では、デフレでも中国の脅威が迫ってもなんとかなると思っています。
それが、グローバリズムとマッチングするのです。
グローバリズムはユーロ圏を観て分かるように、「平時が前提」となっています。
逆に言えば「有事を想定していない」ということです。
移民問題が浮上することなど考えていなかったと思いますし、隣の国からミサイルが飛んで来るかもしれないと考えたらグローバリズムもへったくれもないでしょう。
その”平時が前提”という戦後日本人とも、お花畑とも言える意識が日本国民には政策レベルで刷り込まれていることで、地球市民だの国境にこだわる時代は終わったなどと言えてしまうということです。
だからこそ、いわゆる国の借金の嘘でも大多数は気にしないですし、国家観がないことで平気で隣国に生産拠点を移せる企業が出てきてしまうのです。
デフレにしても、過去に脱却しているわけですからその時と同じようにすれば良いのですが、特別会計を持つ財務省は、するわけがない日本破綻論のプロパガンダをいつまでも撒き散らし続けるのです。
それを真に受けた国民は国債発行による財政出動を悪と捉え、需要が生まれず、財務省はうれぴーとなるわけです。
財務官僚に限らず官僚という者は出世にしか興味がないといいます。
財務官僚と言えども、輸入思想である「個人主義」教育を受けているのでしょうから、国民のことなど尚更興味がないでしょう。
実質賃金が90年代以前の水準まで上がるまではワーワー言うべきかと考えています。
言うまでもないですが、グローバリズムは供給力を増加させるものです。
デフレで物価の下落が問題だと言っているのに物価が下がる政策を推進しているということになります。
有り体に言えば、
「グローバリズムを脳内お花畑によって甘く見ることができるからデフレが脱却できない、デフレが脱却できないのはなんとかなると思っているから、なんとかなると思っている根源はお花畑(平和ボケ)である」
細かい理由や原因は他にもあるでしょうが、根本的にはこういったことであると私は確信しています。
これが、グローバリズムとお花畑、デフレがリンクしている所以です。
まとめ
脳内お花畑(平和ボケ)
グローバリズム
デフレ継続
そして、グローバリズム推進による憲法違反、民主主義の崩壊が生まれます。
社会を支配しているのはやはり「国民の精神」なんだと改めて感じるところです。
最近アクセスがとても増えてきて大変嬉しく思います。
ご覧になっている方にこの場を借りて感謝を申し上げます。
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