先日、Twitterを見てたら大西つねきという人が何やら叩かれてました。
その発端となった動画を見て、経緯を観察してたらいくつか気付きました。
麻生とほぼ同じこと言ってて戦慄した pic.twitter.com/2dLD1DjZGx
— emil (@emil418) July 7, 2020
大西つねきという方のことはそれほど存じ上げませんが、この方が言っていることは、少なくとも「優生思想」ではありません。
普段から優生思想に対して批判的な当ブログですし、この分野について考えることは多いのですが、一般人がこの動画を観て「言葉だけ」をそのまま聞けば、優生思想と誤解する人はいるかとは思います。
この方のことは知りませんし擁護する気もさらさらありませんが、少し気の毒だなとは思いました。
というのも、この方を断罪している人は「命の選別」という意味を恐らく正確に理解していないと思いました。
そもそも、政治における「命の選別」というのは「誰が生きるべきで、誰が死ぬべき」を体系的に論ずることであって、社会における一定の最適化を図る活動です。
この議論を真剣に行った国はまがりなりにも「安楽死制度」があるわけです。
大西氏が言っていることは、ただ単に、年寄りは先に死ぬべきで、若者に活躍の場を与えるべきといった短絡的な話はしていないように私には観えます。
命の選別という議論になれば当然、安楽死制度、堕胎制度、エンジェルフィー問題、人身売買、介護、医療、人種など多岐に渡る分野を考える必要があるわけですし、本人の選択は勿論のこと、非常に難しい問題であることは考えるまでもありません。
考えるまでもないことですが、それを考えていない人が「命の選別」という言葉に振り回され、議論の表面だけを取り上げて、優生思想だとレッテル貼りをしているに過ぎないでしょう。
「誰を逝かせるかの選別をすることが政治」という主旨の主張と「命の選別をしなくても済むようにするのが政治」という衝突、議論には論点が少なくとも三つあります。
医療、介護に割くリソースの問題、現実問題として若者と年寄りのどちらが犠牲になるのかという問題、誰も犠牲にするべきではないという主張が現実としてあり得るのかという問題です。
MMTが好きな方からは反論されるでしょうが、リソースには本質的に限りがあります。
医療、介護の人員や器材、施設の確保など、そのための予算は仮に財政出動で予算を確保しても真摯にそれらの予算に使われることはありません。
それは、現実の医療利権システムや先日の持続化給付金の例を見ても明らかです。
第一、日本民族、特に庶民をひとり残らず駆逐しようとしている連中が世界権力の中枢にいる可能性があるのに、外資や国際機関に言いなりの結果を生み出した日本政府が、仮にBISに「国債発行を制限を」とでも「要請」されれば、法的根拠があろうとなかろうと「へへーっ!」となり、そのプログラムにおける財政出動が中止になることなど誰もが予想できるのではないでしょうか。
学術的に理論的にMMTがいかに正しかろうと、銀行を管理する人たちにとってはどうでもいいことです。
世界の現実は権謀術数が張り巡らされた計略の連続です。
その現実を受け入れられないなら「陰謀論」と思って思考停止していれば良いと思いますが人の命がかかっています。
ふたつめは現実問題として、究極の選択を迫られたら国としてどうするのか?という話です。
国家はそもそも戦争することすら決められるものです。
今は憲法上ギリギリできないということではありますが。
その究極の選択をしないことに越したことはないですし、しないように努力すべきですが、この日本の体たらくぶりでは、その努力が実らない想定をせざるを得ません。
「若者を生かすか、それとも高齢者を生かすか」という究極の選択を迫られる可能性があるなら真摯な議論くらいはすべきだと思います。
実際に何も議論されずにその状況に追い込まれたら確実に地獄絵図です。
この議論に正解はありません。
人の生き死にに、正解があってたまるかという話ですが、死生観はもちろん宗教観など民族的な要素が絡んでくる分野ですので相当困難な議論になるだろうと思います。
「誰も犠牲にするべきではない」ことは理想としてその通りですが、理想はいつも愚かな人間が台無しにしてしまうのが世の常です。
誰も犠牲にするべきではないのであれば、それこそ「ムーンショット目標」が活きてきますし、精神転送なりアバターなりの世界を受け入れるしかありません。
ひょっとすると、大西氏もその程度のことは理解している人達が自分の動画を見ているのだと視聴者を過大評価したのかもしれませんし、あるいはこの議論で揚げ足を取られるとは思っていなかったのかもしれません。
この部分だけ切り取って観たとしても、優生思想と断じる要素はひとつもありません。
後日、ご本人はこの主張は撤回しているようですから色々と大人の事情があったのでしょう。この辺はどうでもいいです。
優生思想というのは、その名の通り優秀な人間が生きるべきという思想で、延長すれば劣等な人間は死んでも仕方ないということです。
優秀な人間とは何でしょうか?
お金をたくさん稼ぐ人なのか、権力者の血統なのか、事業で成功した人なのか、スポーツで偉大な成績を残した人なのか、大学教授なのか、一体何なのでしょうか。
通貨というツールを介し、システム化した社会の中での「優秀」とは他社への思いやりや慈しみといった人間の持つ心は二の次の「獣化した人間」のことです。
それが今日、新自由主義、NWO、SDGs、デジタルレーニン主義といった形で完全な表現をされようとしているのです。
「命の選別」ということなら既に世界中で行っています。
緊縮財政と新自由主義的な政策で一定以上お金を持っていなければ生きていけないシステムになっていますし、それを国民同士で「自己責任」と断じるおまけ付きです。
これこそ「所得における命の選別」でしょう。
世界銀行は緊縮財政や民営化、規制緩和等の新自由主義的政策と引き換えに途上国に融資をし、その契約を以って他国の主権を奪い、グローバリズムと言う欺瞞で帝国主義的な植民地政策を行っています。
その世界銀行には誰が影響を与えているのか。
多国籍企業、国際機関、個人投資家、国際金融資本、組合団体などです。
優生思想を地で行くのは彼らです。
抗がん剤、放射線治療、精神薬などで命を落とす人もいます。「医療における命の選別」も行われています。
これは、患者側の無知に起因するものです。
医者としてはその治療をせざるを得ないところもあるでしょう。
現代医療が「病気を治す医療」と認識され、全く効果のないワクチンを乳児期から連発するプログラムを組み、発達障害とレッテル貼りをしてビバンセなる覚醒剤原料を認可する狂気の医療システムが存在する現実で、無条件に医療制度を守れと叫ばれていることはいささかおかしいと私は思います。
現在の医療は制度がないためにとにかく延命させるだけの活動になっていますので一定の修正はすべきだとは思います。
その人の命が大事だから延命させているのではなく、薬漬けの状態で長く生きててもらわないと、お金にならないからです。
それは、大抵の場合健康保険から支出されます。
このような医療制度は唾棄すべき構造であって、いつまでも許しておくべきではありません。
安楽死制度の創設自体、医療利権に触れるものですから、財界の言いなりになっている現在の国会議員が自発的に行うことはあり得ないでしょう。
むしろこれから、コロナに関してどんどんワクチンを打ちましょうといった流れになることは明らかです。
日本という国で懸念されることは、「安楽死に追い込まれる」ことです。
経済的徴兵という言葉があるように、経済的に追い込まれて安楽死を選択せざるを得ないという現実を迎え入れることになるでしょう。
日本は、外国人はおろか国民までも安く買い叩き、その上、学生は借金漬けにし、非正規雇用を増やして未来を奪い、さらに大量の自殺者、変死者、行方不明者をほったらかしているのに、国民に関心がないという奇特な国です。
この分野の議論は正解はありません。
正解はないけれど、この途方もない議論をすることや努力は、元々、不完全な人間の活動として素敵なことだと私は思います。
「命の選別」という言葉の威力に感情を振り回され、言葉の奥や行間も考えずに発言者を攻撃し、挙げ句に撤回させるというのは、特定の考え方を排除する点で「優生思想的」と感じた次第です。
その言葉だけを取り上げるなら揚げ足取りですし、それに対し、「現実的に迫っている社会的な危機」としての「命の選別」の議論を「命の尊厳」という言葉で議論を封じ込めた結果、より多くの人が死んだという結果に対して責任を取れるのかという、反論も成立してしまいます。
責任は痛感するだけで取れるものではありません。
私個人も到底受け入れない考え方や思想はありますし、大事な人の命を奪われれば、復讐心に駆られ、そんな人間は~と攻撃的で粗野で聞くに堪えない愚劣な言葉を吐いてしまうかもしれません。たぶん吐くでしょう。
誰もが、そういうところを持っているのではないでしょうか。
だからこそ人間は尊いとも思えます。
人間である以上、ひとつやふたつ、考えに欠陥や心に欠落があるのが当然です。
恐らくこの人間の欠落というものは無くならないでしょうし、永遠に埋まらない欠落があってこその人間とも思えます。
だから、少しだけ肩の力を抜いて欲しいと思います。