思いやりが弾圧に変わるとき

思いやりが弾圧に変わるとき

先日、例の情報開示請求に返信が来たということで話題になっていました。

段々と下っ端の役人がかわいそうになってくるほどお粗末な回答でした。

動画でも触れていますが、以前に大橋眞氏も指摘していたこともありましたが、WHOが指摘したことで取り下げられた有名な資料でした。

こんなことをするなら開示できませんでよかったと思うほどです。

というのも、一度取り下げたものを内容を変えずに再度公表するということは、厚生労働省から国立感染症研究所に対して、何らかの圧力があったと考えざるを得ません。

とんでもないことですが、今更とんでもないことに驚いている場合でもありません。

異常が日常のこの日本と世界の狂気はこの先さらに深まっていきます。

上記に挙げたサイトの内容を見ていわゆる新型コロナウイルスに一切の違和感を感じず、また否定できるのであれば教えてほしいくらいです。

権威の信頼が失墜した時代に論文を出すことなど無意味ですし、また権威が信頼できるならこれほどひどい社会になっていないはずです。

それすら理解できない「インテリ」が「根拠を出せ」主張するわけですから、言葉で説得することは不可能でしょう。

韓非子にこのような言葉があります。

「智を以て愚に説けば、必ず聴かれず」

知性のある人が知性のある人を説得することすら非常に難しいのに、ましてや知性のある人が、愚か者に説得することなどもはや不可能であるというようなことを言っています。

言い換えれば、正論では人は動かないということです。

また、関連して論語にも含蓄深い言葉があります。

「君子は義に諭り、小人は利に諭る」

「義を見てせざるは勇なきなり」

説明するまでもないでしょう。

こんなことを言ってしまえば身も蓋もないですが、本当に新型コロナウイルスというものを信じていてマスクをしている人、新型コロナウイルスなんておかしいと思いながら同調圧力でマスクをしている人を説得することは、至難の業であるということです。

前者は愚か者ですし、後者はマスクをしていないことで不利益を被りたくないという勇気のない人です。

大多数がこういった連中です。

前者は当然の如くワクチンを接種するでしょうし、後者は渋々ワクチン接種することになるでしょう。

「他者への思いやり」などという言葉が使われながら。

そして、この他者への思いやりは必ず、弾圧、差別を生みます。なぜなら、いわゆる新型コロナウイルスというものは、教祖をマスメディアとする「宗教」だからです。

過去には魔女狩りもありましたし、現在でも宗教戦争は続いています。

スペイン風邪が流行したとされるときもマスク差別があったように、大衆は100年前から全く進歩していません。

歪んだ思いやりが取り巻く社会は強力な相互監視を生み出し、それならテクノロジーで監視できたほうが便利だよねなんて思いながら、人々はデジタルレーニン主義を受け入れていくのでしょう。

厚生労働省は去年の時点でマイナンバーとワクチン接種済み証明を連携させようとしています。

第36回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会 予防接種基本方針部会

このような悲劇なのか喜劇なのかわからないものにも、ビジネスは最優先され、権威主義に頭を垂れることで成立している社会システムの成れの果てが、生き残る多数の家畜人間と少数の支配者がいる家畜牧場というのもなんとも言えない気分です。

この社会変革を受け入れられない人は死を以て救うということなんでしょうが、問題は「死の定義」です。

ただ、ワクチンの副作用で死ぬとか経済苦で死ぬとかなら人口削減と一致しますし、イメージもしやすいのですが、これがまた、マトリックスよろしくVRの世界に行かされ、24時間栄養を補充され、そのVRの世界で現実を忘れていき、それをこの世界の現実の事実上の「死」とされるのではないかということです。

五感情報通信技術に関する調査研究会

https://patents.google.com/patent/US10163055B2/en

「五感情報通信技術に関する調査研究会」 報告書 概要

ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現

これらのことを踏まえて考えると、彼らの言う「死」とは、この世界から退場させられることをも含めているのではないかということです。

つまり、大衆を仮想現実に永遠に追いやることで事実上の死とし、人口削減していくということです。

これらの資料を見てみるとそんな妄想もできなくはないと思います。

この世界で生き残っても家畜として生きていき、仮想現実に追いやられれば植物人間状態、脳死状態のようになるということであれば、この世界に何を期待して生きていけるというのでしょうか。

ただの空想と思うことは人の勝手ではあるのですが、寺山修司の言葉を借りれば、「空想は現実を見るためのひとつの方法論」であり、「現実とは、万人の空想に支えられた楼閣である」ということでです。

新型コロナウイルスという空想を前提とした薄っぺらい思いやりが生み出す弾圧は、その思いやりをもつ人達が期待しているはずの未来にはならないという現実を作り出すでしょう。

あまりにも滑稽で、空しく、歯がゆいことですが、私の観ている現実は紛れもない彼らの空想であり、私達に対する悪意(善意)です。

どうせ空想ならば、作り込んで矛盾が見つけられないぐらいの演出をしてほしいところです。

911爆破事件にしても、雑だから頭にくるのです。

これがもし実現するのなら、過去の記事に書いたように、人間は情報化される運命にあるのかもしれません。

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