民主主義という暴力

民主主義という暴力

民主主義とは、国民主権であり主権者たる国民が、真剣に政治に参加し、投票、働きかけという活動で社会を維持、変革させる政治システムです。

有権者のひとりひとりが真剣に社会、未来を考え、選挙を通じて代理人を送り出し、その代理人を監視し、圧力をかけ続けるものです。

それなのに「政治の話はタブー」という慣習が存在していることにどれほどの人が疑問を持っているのでしょう。


その意味では、資本主義の下部構造の中、現在の財界は「資金」という圧力をかけ続けたわけですからある意味真面目に政治を行ったと言えます。

財界であっても、社会全体を考えて政治を行うべきですが、グローバリズムという考え方が浸透したために、国民の利益と企業の利益が一致しなくなりました。


財界にとって国、国家を考えてビジネスをする必要がなくなったために財界が最大利益を図るために政治をした結果、国民の生活は破壊されていき、行き着いた先が企業が国家を滅ぼしているという構図になりました。

その現実を認識、理解できない一般大衆はこれこそが、「日本のためである」と思い込まされています。


それが、民主主義的暴力、つまり教育システムと大企業がマスメディアを買収した上で施されたマインドコントロールです。

自ら考えさせない、正解はひとつ、権威に対する疑いを持たせないといった洗脳は、正しく民主主義の否定でありそのシステムを権力が作っているという事実は、権力者のとっても民主主義システムは大衆に対する「騙し」であるという認識があるのだと考えられ、あるいは欺罔を前提とした政治システムであるという認識に立っているということが言えるでしょう。


民主主義システムにおける暴力は明治維新後、つまり議会制民主主義の当初から存在しています。

第二回衆議院議員総選挙の当時、当時の明治政府(松方正義内閣)は民党候補の当選を阻止すべく、手持ちの暴力装置を総動員しました。

その計画を指揮したのが品川弥二郎という吉田松陰の弟子でもあった長州派維新志士です。

品川弥二郎ーWikipedia


その計画は様々な形で実行に移され、警察が管轄内の事業者に圧力を掛けたり、家々を個別に回って民党に投票しないように揺さぶったり、投票日に有権者が投票所に行かないように妨害したりと、やりたい放題だったのです。

有権者を脅すために警察権力を拡大するという言語道断の所業です。

結局、新しい衆議院議員が決定するまでに24人もの人間が命を落とすという結果になったのです。

参考:悪党・ヤクザ・ナショナリスト近代日本の暴力政治

現在でも、「ケチって火炎瓶事件」などがあるように明治政府から連綿と続く権力構造は現在でも存在しており、元々政治と暴力は切り離せないものだったというわけです。

TPP反対を声高に叫ぶ政治家が急死を遂げてみたり、特別会計を国会で話そうとして刺殺される政治家もいたわけで、そのようなことを事件があれば権威も有識者、評論家と呼ばれるような人間も、「その話題はタブー」という認識となり、口を噤むようになります。

「タブー」はどのように作られるのか?


最近、当ブログの読者さんから教えて頂いたのですが当ブログもシャドウバン的な扱いを受けているということでは、こういったテクノロジーを利用した検閲も一種の暴力であり、大企業と権力が結びついていることを如実に示してくれています。

Googleの検閲、言論統制がすごい!


情報社会におけるテクノロジーを利用した検閲という暴力は、あらゆるコミュニティを限定させていき、ネット世界の限定された層でのみその話題、考え方、認識、思想などが強化されていく可能性があります。

エコーチェンバー現象と言われるものですが、フィルターバブルを含めて考えると実際にこのような傾向は社会に顕れています。

フィルターバブルとマスメディアが作り出す人間

エコーチェンバー現象ーWikipedia


全体で見れば、例えばアカデミズムを前提とした権威主義的に社会を認識する層、ジェネラリスティックに現実を認識する層、陰謀論者層、B層などといった「棲み分け」が行われ、そのコミュニティは「監視技術」によって監獄とされます。

このコミュニティは互いに解り合うことはできなくなります。


なぜなら、コミュニティそれ自体は「認識共同体」であってその認識とは違う意見や主張を聞いたとき、「間違っている」と判断してしまうために、異分子として遠ざけてしまうのです。

正しさ」は大切ではあるのですが、正しさを競っていてもそれは分断を生み、その分断は権力者に寄与してしまいます。

正義が悪を生む


言論弾圧、言論封鎖の動きは顕著のようですからコロナで騒いで監視社会という路線は確定しています。

月内に電話番号開示請求 ネット中傷対策で省令改正 高市総務相

コロナ騒動の裏で構築される監視社会


監視社会と民主主義は相容れないものです。

日本の言論封殺の手法〜プライバシー権が魂を守る〜

監視社会も限度があります。一定の監視は必要だと思いますが囚人には誰もなりたいとは思わないでしょう。


故郷や地元というものは理由もなく安堵するような場所です。

嫌なところもあって、悪口も言いたくなってもそれでも故郷というのは、例外はあっても母親のような安心感や愛を与えてくれる存在です。

そのような多くの人が大事に思う場所が殺されてしまうかもしれません。


そんな時代に新自由主義的に自分が勝ち組だと、自分だけは大丈夫だと思えるのは相当な権力者か救いようのないバカしかいません。

気狂いが作ったシナリオに一般大衆の未来はありません。

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