監視社会は本当に実現する?〜テクノロジーの進化〜


WikiLeaksでこのような記事が出ました。

https://wikileaks.org/ciav7p1/

CIAのハッキングに関する文書が公開、内部告発といった形で暴露されたとのことです。

テレビやスマートフォンで録音したり、自動車をハッキングして暗殺することも可能とテクノロジーが理解に範疇を越えてしまいます。

諜報活動に善悪や倫理は無関係なんでしょうが、なんだか気持ち悪い話です。

このように簡単に事故に”見せかけて”誰かを殺害するという方法を知ったら、要人の事故死は「誰かに殺された」と考えられてしまうことでしょう。




我が国も政治家がよく病気で亡くなりますが、もしかしたら民間には知られてない技術で殺されたのではないかと穿った見方もしてしまいます。

例えば、握手をすることだけで時間差で心筋梗塞を起こさせるとか、ある気体を吸い込ませるだけで脳梗塞になるとか、突飛に聞こえるようなことが現実に行われている可能性は否定できないと言わざるを得ません。




そもそもそういった技術は政府機密でありますので一般の国民がそおテクノロジーを知ることは通常不可能です。

私は常々不思議に思うことがあります。

それは、誰かがある可能性を語ると「陰謀論」だと決めつけられ、あいつは「頭がおかしい」とか「狂っている」とされてしまうことです。





個人的にはある程度信頼できる根拠をもって可能性を語ることぐらいいいじゃないかと思うのですが、社会はそれを許してはくれないようです。

以前私がロービングバグの存在を知人に話したら、陰謀論と決めつけられたことがありますので、早々口に出すものではないなあと感じたことをよく憶えています。

私がこのブログで書いていることも見方によっては陰謀論かもしれませんし、このブログには書けないこともありますからそれを書いたら陰謀論者だと断罪されてしまうかもしれません。





しかしながら、この「陰謀論」という言葉のイメージを率直に言ってみれば「なんかバカっぽい」とか「無責任さ」、「陰謀論を唱えることによる利益がある」などのネガティブな印象しかありません。


陰謀論にネガティブなイメージを流布したのはCIA

以下はケネディ大統領暗殺の調査報告書に対する批判への対応が記載された文書で、情報公開法に基づいて公開されたCIAの内部文書です。

http://www.maryferrell.org/showDoc.html?docId=53510&relPageId=2

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CIA 文書 #1035-960

件名:ウォレン報告書に対する批判への対抗

1.我々の懸念。ケネディ大統領の暗殺の日から今日まで、大統領の暗殺の責任について推測がなされている。この推測はウォレン委員会報告書(1964年9月下旬に発表された)によって一時的には抑制されたものの、様々な書き手が今や疑問の新たな口実を求めて委員会が発表した報告書と文書に目を通しており、委員会の結論を批判する書籍や記事の新しい潮流が存在している。大抵の場合批判者は一種の陰謀の存在について推測しており、しばしば彼らは同委員会自身が関与していたとほのめかしている。恐らくウォレン委員会の報告書に対してますます高まる異論の結果であろうが、一つの世論調査はアメリカ大衆の46パーセントがオズワルドが単独で実行したのではなかったと考えていることを示しており、そのうちの半数以上が委員会はいくつかの疑問を解明されないままにしていると考えていることを示していた。海外での確かな世論調査も同様な結果、または場合によってはより不都合な結果を示していた。

2.こうした世論の潮流は、我が組織を含め、アメリカ政府にとって憂慮すべき事項である。ウォレン委員会のメンバーは品位、経験、卓越性により中立的に選出されたものである。メンバーは両二大政党を代表しており、またメンバーとその補佐役は細心の注意を払って国の全ての方面から集められていた。そのような委員に立ち向かうものであるため、彼らの公正さと見識に異論を唱える取り組みは、アメリカ社会の全指導体制に対して疑念を投げかける傾向を持つものである。さらに、ジョンソン大統領自身が、便益を得たとまで言われる一人として、暗殺に対して何らかの形で責任があったと示唆する傾向がますます高まって存在していると思われる。

そのような憂慮すべきほのめかしは関係当事者のみならず、アメリカ政府の信望全般に対しても影響を及ぼすものである。我が組織自体にも直接関係するものである;一つの事実として、我々が調査に対し情報を提供したからである。陰謀論者は、例えばリー・ハーベイ・オズワルドは我々のために働いていたと偽って主張することで、しばしば我が組織に対して疑念を投げかけている。この指示書の目的は、他国でのそのような主張の流布を防ぐために、陰謀論者の主張に反論し彼らの信用を貶める材料を提供することである。背景となる情報は機密セクション並びに数多くの機密扱いではない添付文書中にて提供されている。

3.行動。我々は議論がいまだ起きていない場合には、暗殺に関する疑問をめぐる議論が開始されることを推奨するものではない。議論が活発[問題]である場合には、以下の対応策が求められる:

a.広く知られている問題について連絡担当者や友好的エリート接触者(特に政治家や編集者)と共に論じ、ウォレン委員会は人間的に可能な限り徹底的な調査を行っており、批判者の訴えには真剣な基盤がなく、さらなる推測に基づいた議論は反対勢力の術中にはまるだけであることを指摘すること。また陰謀議論の多くは共産主義者プロパガンダ扇動家によって意図的に引き起こされたと考えられることも指摘すること。彼らに事実無根の無責任な推測を阻止するべく自分達の影響力を行使するよう促すこと。

b. プロパガンダ情報人脈を活用し、批判者の攻撃を[無効とし]反論すること。書評や特集記事がこの目的には特に適している。この指示書に添付された機密ではない添付書類がその人脈に与える有用な背景資料を提供するに違いない。我々の策動は、規定通り、批判者は(1)証拠が出現する前に理論と結ばれていること、(2)政治的に利害があること、(3)金銭的に利害があること、(4)自分達の検証において軽率で不正確であること、(5)自分達の理論に夢中になっていること、を指摘せねばならない。全般的事象としての批判について議論する過程において、有用な戦略となると思われるのは、添付した背景情報となるFletcher Knebelの記事とスペクテイターの記事を活用して、エプスタインの理論を選出することである。(Mark Laneの書は精通している批判者に直面した場合エプスタインの書ほど説得力のあるものではなく、ひどいものであり、関係のない詳細の泥沼に陥いっているため、全般として答えることが困難にもなっている。)

4.非公式な場や特定の書き手に向けられたものではないメディアの議論において、あるいは公表されていない言説を攻撃する際には、以下の論点が有用であるに違いない:

a.委員会が考慮しなかった新しい重要な証拠は出現していない。暗殺は時折(例、Joachim Joesten や Bertrand Russellによって)ドレヒュス事件と比較されている。;しかしながら、同事件とは異なり、ウォレン委員会に対する攻撃は何ら新しい証拠を提起してはおらず、真犯人も納得の行く形で特定はされておらず、批判者の間でも同意は形成されていない。(より最適な比較は、不完全なものではあるが、1933年のドイツ議事堂放火との比較であろう。一部の優秀な歴史家(Fritz Tobias、AJ.P. Taylor、D.C. Watt)が現在ではこの放火はVander Lubbe により、ナチスのためでも共産主義者のためでもなく、自身の決断で実行されたと考えている;ナチスはこの責任を共産主義者に負わせようと試みたが、共産主義者はナチスが責任を負うと世界に信じさせる上でより成功したのだった。)

b. 批判者はたいていの場合特定の事項を過大評価し他の事項を無視している。彼らは個々の目撃者の回想(これらは信憑性が低く、一致していない‐そのためさらに反論の手掛かりを提供するものである)により重きを置いており、弾道解析、検死、写真上の証拠には重きを置いていない。委員会の記録を詳細に検証すると、矛盾する目撃者の説明は文脈から外れて引用されたものであるか、委員会から適切で十分な理由により却下されたものであったことが通常は示されることになる。

c. しばしば示唆されている大規模な陰謀は、アメリカ合衆国においては特に情報提供者が特別な権益等を受け取ることが想定可能であるため、隠蔽が不可能である。当時の司法長官でジョン・F・ケネディの弟であったロバート・ケネディはいかなる陰謀であれ見過ごしたり、封印したりする人物ではなかったことに留意されたい。一人の批評家が指摘したように、ジェラルド・R・フォード議員が民主党政権のために口をつぐむはずがなく、ラッセル上院議員はウォレン最高裁判所長官側の不正を暴くことにあらゆる政治的関心を持っていたのだった。さらに陰謀者がルート、車両の速度、動く標的、暗殺が発覚するリスクといった多くが自分のコントロールを超える状況に左右されるような発砲箇所を選ぶはずはがない。富める陰謀者であればより確実な状況を手配することが出来たはずである。

d. 批判者はしばしば一種の知的自尊心にそそのかされているのである:彼らは何かの理論と出会い、その理論に恋しているのである;彼らはまた委員会を嘲笑してもいる。なぜなら委員会が全ての疑問に対して何らかの形で常に決定的な解答をしてはいないからである。実際には、委員会とその補佐役の構成はいずれかの理論への過度の傾倒に対する、また可能性の確実性への不法な変換に対する優れた安全対抗策となっていたのであった。

e. オズワルドは分別のある人間が共犯者として選択する人物ではなかった。彼は「一匹狼」で、情緒不安定で、信頼性に疑問があり、専門的情報工作に際しては未知数の人間であった。

f. 委員会の報告書が急ぎの仕事であったとの訴えに関しては、同報告書は当初設定されていた締め切りの3ヶ月後に発表されたと言わねばならない。また委員会が報告の作成をどれほど急いでいたのかという点では、大部分が既に出現していた無責任な推測というプレッシャーによるものであり、そのプレッシャーには自分達の間違いを認めることを拒みつつ、現在新しい批判を表明している批判者からのものもあったと言わねばならない。

g. 「10人以上の人が不可思議な状況で死亡している」というようなあいまいな告発は自然なあり方として常に説明が可能である。例:懸念となっている人々は大部分が自然な原因により死亡している;委員会の補佐役は418人の目撃者を質問し(FBIはこれ以上の人々をインタヴューし、25,000人をインタヴュー、再インタヴューした)。このような大規模な集団においては、ある程度の死者数は想定されるものである。(「10人の謎に満ちた死者」構想の創設者の一人Penn Jonesがテレビに出演した際、彼のリスト上の死者の二人は心臓発作によるものであり、一人はがんによるものであり、一人はドライバーが橋台にはまり込んだ時に起きた橋の上での正面衝突によるものであったことが明らかになった。)

5.可能であれば、推測には委員会の報告書自体を参照するよう促すことで対処しなければならない。偏見のない海外の読者は依然として、委員会が取り組んだ際の注意深さ、徹底性、客観性、迅速性に感銘を受けるに違いない。他の書物の吟味する者は、報告書自体と照らし合わせて、報告書に対する批判者の作品よりも報告書の方が優れていることが分かるとの意見を自分達の感想に付け加えたいと促されるであろう。

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ウォレン報告書とはケネディ大統領が暗殺された時に、発足した調査委員会です。

この報告書の内容に「なんかおかしくね?」と思って発言する人達を疎ましく思ったCIAがメディアを使って「陰謀論=バカ」というイメージを拡めたのだろうと言えます。

そもそも陰謀という言葉の意味は「ひそかに企む謀」といった意味なのですが、私は子供の頃から、人間やグループの「ひそかに企む謀」を見ていたように思えます。


子供から大人まで、人が集まれば組織となる

人が集まれば組織となることはわかると思います。

グループも組織です。

またその「組織」には決めずともリーダー格の人間がいます。

そのリーダー格が組織のためあるいは自分の利益のために謀を計画するということは日常的に行われています。




子供の時には敵対しているグループの人間をハメようと画策してみたり、スポーツチームでは誰かを辞めさせようと、役割分担で辞めさせるように計画してみたりと、これは被害を受けた側から観れば完全に陰謀でしょう。


私が子供の時に見た、あるいは行ったカワイイ謀

中学生の時に、なぜか私がとなりの中学校の15人くらいの不良グループのリーダー格に目を付けられ、放課後に私を狙って探し回られるという事態が発生しました。

なんだか理由は中学生らしく「言った言わない」のつまらない理由だったと記憶していますが、当時の私は「殴られるの嫌だな」と思ってなんとかこの状態を抜け出したい一心で、考えました。

結論から言えば、私を狙っていた甲中学校の不良グループと仲の良い乙中学校の不良グループが、

河原で決闘」ということになったのです。

実際は河原ではなく高速道路の下でしたが。





私が考えたことは、乙中学校の友人に甲中学校の不良グループの何々という奴に狙われてるんだと話してみるということだけでした。

当時は先のこともイメージ出来ず、楽観的な子供でしたからとりあえず相談がてら遊びに行こうというノリだったのです。

適当に話の流れから、「私は甲中学校の不良グループに狙われているんだけど、誰一人として面識がない。理不尽なことになっている」と話してみたら、





乙中学校の友人が、甲中学校のリーダー格並びに不良グループを調査しはじめたのです。

この時点では私は何も知らず、後々その友人にどうしてそんなことをしたのかと尋ねたところ、

おもしろそうだったから」ということでした。

そして友人とリーダー格は二人で揉めだして、甲中学校と乙中学校の決闘という運びになったのです。




私としては「話してみただけ」なんですが、いつの間にか話が大きくなり、高速道路下で血統、そして友人に負け、リーダー格は私のことなどどうでも良くなったそうです。

予期せず私の元々の目的を果たすことができました。

考えてみれば、この決闘の発端は私の乙中学校の友人への「相談」です。

これは後々、部外者から見れば私の「陰謀」と囁かれる可能性があります。

実際に当時、「甲中学校と乙中学校をぶつけたのは「私」だ」と言われていたようです。






確かにそういった側面はあるかもしれません。

仮に、乙中学校の友人の行動をある程度予測できる立場の私が、友人を口車に乗せて誘導したと疑惑を持たれれば、私は無いことの証明、いわゆる「悪魔の証明」をしなければいけなくなるのです。

この時点で疑惑を完全に晴らすことはできません。

でも私の謀と、陰謀だと言われてしまえばそれまでなのです。





社会に出れば複数の会社が結託して、その業界に利益誘導をするようなこともよくあることです。

その結果として、それまで利益を受けていた側や利益にありつけなかった者、それによって何かしらの被害を受けた者が、陰謀と言い出したりもします。

誰々をハメる」、「画を描く」なんて行為も陰謀と言えるでしょうし、劇場型詐欺も陰謀と言えます。


陰謀は一定の影響力のある人間に施される

陰謀の存在を知ると極端な人は自分の失敗も何かの陰謀と考えたり、ほとんど妄想や被害者意識で物事を見るようになってしまう傾向があるようです。

陰謀を企てる側も間違いなく「お前なんかに用はない」となるでしょう。

政府の有識者会議は、一ビジネスマンが、政治家という影響力を持つ人に対して、法改正に影響力を発揮します。

有識者会議は平成の貴族院である


ビジネスマンが政治家にくっつくことの目的は、自己の利益を図ること以外にないでしょう。

だからこそ「影響力」という力を利用し自己の利益を生産するために、謀を企てる。

後に、陰謀と言われるようになる。

大体この流れです。




影響力のない段階の人間は陰謀という劇場のエキストラにすらなれないもので、受けることと言えば陰謀の「効果」、つまり企てた者の利益の犠牲になるしかありません。

企てた者に便乗すれば何かの利益を享受出来るかもしれませんが、思想や主義の違い、無知といったような状態なら犠牲になる可能性は高くなることは想像に難くないと思います。


疑惑をもたれるに十分な根拠が陰謀は既成事実に昇華する

陰謀論を検索してみると様々な説が出てきます。

中には根拠薄弱なものや妄想の類もありますが、これはちょっと本当かもしれないと思うものもあるのが事実です。

それなりに根拠がはっきりしていれば、利害関係のない信用できる組織や団体が調査をすべきだと思います。

以前書いた記事で911事件に関することを書きましたが、911事件に関しては、私も非常に不思議に思うことがいくつもありますし、友人のアメリカ人は、私がふざけているとよく冗談で「お前は第七ビルか!!」なんてツッコミを入れてくる人もいます。

911事件 ビル倒壊は「計画的だった」と科学誌が公認した


これだけの疑惑があれば最早、陰謀どころか既成事実となるでしょう。

見せ方の問題もありますが、疑われるに十分な根拠と前例があれば別に陰謀論とレッテルを貼られようとも、闘い続けるべきだと私は考えます。

今日は3月11日です。

東日本大震災から6年。

何もはっきりしていないような気がしています。

被災された多くの同胞のためにこの6年何が出来たのかまた、何ができなかったのか考える日にしたいと思います。

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