民主主義という政治体制の要素である「言論の自由」が、脅かされる時、どのような手法が使われているのでしょうか?
この言論封殺の手法には、言論の自由はもちろん、表現の自由、プライバシー権などの権利と複雑に交錯しています。
この記事では、それらのことを考えてみたいと思います。
恐怖に訴えかける
目次
にも書いた手法で恐怖プロパガンダというものがありました。
これを応用すれば言論封殺もすることができます。
例えば以下のようなやり方があります。
思ったことを口にすることが憚れる空気が醸成されていると理想的です。
話題としては皇室批判などは典型でしょう。
我が国で、皇室批判は基本的にタブーとなっていますがなぜタブーになったのかと言えば国家神道というある種の国教制度が存在したためです。
一応言っておきますが、別に私は天皇制反対とか考えたこともありませんし、毎年一般参賀に赴いています。天皇制という言葉も戦後サヨクが作った言葉ですので皇統を破壊する意図が見え見えの謀略です。
私は昭和天皇にのみある種の違和感を覚えているだけです。
話を戻します。
この皇室批判をすることでどのような目に遭ってしまうのでしょうか。
まずひとつは、街宣右翼の攻撃や恫喝に対する恐怖があるでしょう。
皇室批判をすることで毎日街宣されてはたまらないでしょう。
大手メディアなどの企業体であれば尚更です。
それにもまして非国民扱いも受けたりもします。
これがあるために皇室についてはどのような事実があろうとも批判、非難をしてはならないという”空気”が皇室批判を許さなくなるのです。
表向き「言論の自由」があろうとも口にだすことで自由が制限されるのであればそれは正に「言論封殺」です。
私自身そういった怖い目にあったことはありますが私にも信念があります。そういった威嚇や街宣、拉致などを怖がっていては我が国は悪い方向へ加速して向かってしまうことは避けなくてはなりません。
実際私の住む地域にも右翼団体は多くいます。
中には信念をもってやっておられる方もいらっしゃるのでしょうが、一般の日本人が国歌や愛国心、軍歌のイメージが「怖い」とか「関わらないようにしよう」などになってしまうことをどのように思っているのでしょうか。
私はそれが心苦しいのです。
毎年一般参賀に赴く際に必ず列を割り込む右翼団体の集団がいます。
誰も何も言えません。
それが愛国者、日本人として正しい振る舞いであるなら別に私は日本人でなくても良いです。
そんなことをしていれば誤解されるに決まっています。
話題に出すことすら憚れる空気を醸成することがファシズムの入り口であり、言論封殺、言論統制の始まりとなります。
このように恐怖を利用して言論封殺をすることができます。
レッテル貼りでも言論封殺はできる
「レッテル貼り」というのは以下の記事にも書きましたが、「事実を”作る”」効果を生み出します。
例えば、先ほどの皇室批判の場合で考えれば以下のようなレッテルを貼ることで相手を攻撃することができます。
「反天連(反天皇制運動連絡会)の回し者」
「非国民」
「反日朝鮮人」
「テロリスト!」
などと言っておけば、レッテルを貼れば不利な議論を回避することも可能な上に、相手の言論を封殺することができます。
最近では安倍総理の批判でも、朝鮮人だの反日だのと言われている人がいるので、恐らく党員やサポーターが安倍批判の言説を見たらこう言い返せとばかりのマニュアルがあるのでしょう。
蛇足ですが、私にはグローバリストで新自由主義者で日本国民の生活よりも外国人を優先、あるいは同等と考える総理大臣は保守ではなく完全に革新だと思いますがどうなんでしょうか。
国家戦略特区、派遣法の改悪、水道事業民営化、種子法廃止、農協改革、TPP推進、移民推進などこれだけでも革命レベルです。
私の感覚だとこれこそテロ行為です。
国家戦略特区というバカげた制度で国家を改造し、移民を推進し、新自由主義的な政策を断行することがどうして保守なのか教えて欲しいものです。
国家戦略特区とは構造改革特区の焼き直しです。
有識者の中には、例によって派遣差別という新たな階級社会を創造し、結果として結婚できない男女を増やすことで少子化を推進、人間の出す二酸化炭素の削減を実現し、日本国民を貧困化させることで自身の懐を暖める、慶應義塾大学に籍を置く環境問題専門家の竹中平蔵大先生です。
以下、国家戦略特区カルテルの面々です。
秋池 玲子 ボストンコンサルティンググループ シニア・パートナー&マネージング・ディレクター
坂根 正弘 株式会社小松製作所相談役
坂村 健 東洋大学情報連携学部 INIAD学部長
竹中 平蔵 東洋大学教授 慶應義塾大学名誉教授でパソナグループ取締役会長
八田 達夫 アジア成長研究所所長 大阪大学名誉教授
何故か外資コンサルティング会社も入っていますが、このようにマッキンゼーやトーマツ、BCGを始めとするコンサル企業の事業は一般の日本国民にとって何の利益にもならないこと、むしろ悪影響であることだけは付け加えておきます。例えて言えば昔で言う「海賊、バイキング」です。
ついでに言っておきますが、大手コンサルティング企業の若手がコンサル業務でかき回した企業の後始末が私の会社に回ってくることがあります。しかしその時にはもう手遅れということが非常に多いので、企業経営者の方は十分にご注意願います。
話が逸れましたが、レッテル貼りは非常に強力な言論封殺攻撃です。
これを回避あるいは威力を消滅させるには、非常に多くのエネルギーを要します。
威力の消滅で言えば、相手の2倍3倍の反論を”その場”で言った上で話をすり替えるなり、相手にレッテル貼りするなり、相手の人格までも攻撃するなりしなければ、相手がしてきたレッテル貼りの効果をキャンセルさせることは難しいです。
相手のレッテル貼り攻撃を回避するには、特定の相手のみですが以下のことが効果的でした。
「レッテル貼りをすることで議論から逃げる情けない人が多くてね~」
と話が始まる前に釘を刺しておくことです。
もし、この後にレッテル貼りをするようなことを言われれば「レッテル貼りだ!」と相手にレッテル貼りをすることで、相手は「情けない人」という印象を相手に、また周囲に与えることができます。
「空気」を利用する
空気とはその時の「常識」となり得ます。
先ほどの皇室批判にしてもそうですが、例えば
「安倍首相は保守の鑑だ」
という社会の空気があった場合に、
「安倍首相は移民を推進して日本を戦後最大の移民受け入れ大国にした首相である」
と言ったら、安倍首相の支持者は間違いなくこのように反論、レッテル貼りをするでしょう。
「外交で素晴らしい成果を上げているじゃないか!」
「移民の受け入れと保守かどうかは関係ない」
「反日!在日!」
「反日サヨク」
「共産主義者」
「テロリスト」
あるいは「無視」。
安倍首相や小泉進次郎とかいう人のYouTubeのコメント欄なんか見てるとファンなのか工作員なのかB層なのかわかりませんが確認してみるとよく使われています。
なにせ、ここのコメント欄は「宣伝活動の場」と化しているのですから。
新自由主義の到達点と共産主義の到達点は同じですが、新自由主義者が共産主義者とレッテル貼りをしているのを観ると非常に嘆かわしく思います。
新自由主義と共産主義の作り出す未来〜優生学は現代に存在する〜
いつの時代も空気を作るのはメディアです。
そのメディアは金に支配されています。
プロパガンダだろうが情報操作だろうが、そこに嘘が混ざっていようが、信じた者にとっては真実だということになってしまいます。
いつか自分の頭で考え続けるという選択を取らなければ、死ぬまで騙され続けてしまいます。
絶対に信じてはならないものは「政治家、弁護士、金貸し、マスメディア」というのはこの世の常識です。
プライバシー権との関係
プライバシー権というのはいわゆる「新しい権利」のことです。
要は私生活上の事柄をみだりに公開されない法的権利です。
「別に誰に見せても恥ずかしくない生活をすれば良くない?」
と思う人もいるとは思いますが、どんな人も隠し事のひとつやふたつあるのが人間です。
そんな聖人君子はそうそういるものではありません。
プライバシーという権利はなんのためにあるのかと言えば「”個人”を守るため」です。
隠していることを暴かれない為の権利ではありません。
考えてみて欲しいのですが、あなたは、見ず知らずの人に自分の悩みを相談できますか?
自分の心にある主張や想いを、誰にも干渉されずに言葉にして表現するには、「自由に考える」という作業を経なくては表現できません。
その過程の中で、心の中の負の存在や権力などに目を付けられているという認識があれば当然、それらの存在に配慮した(不利益を被りたくない等の心理)、あるいは全く違う考えや結論を出していくであろうことは想像に難くないでしょう。
こういった理由からプライバシー権は必要なのです。
プライバシー権が侵されれば表現の自由も機能しなくなり、言論の自由も機能しなくなる
このプライバシー権が侵され、監視の対象と自身が認識したとすれば、
「思ったことを口にすることに抵抗を感じる」ようになるはずです。
そうなれば、あなた自身があるがままのあなたではいられなくなります。
「言わないでおこう」が日に日に増えていき、生活すること以外の話題は誰にも何も話せないとなっていくのです。
したがってプライバシー権が無くなれば「個人」は消滅し、牧場の羊のように数でしかなくなるのです。
プライバシー権が侵されることで表現の自由も侵され、言論の自由も侵されることになるのです。
現代の言論封殺、言論統制は監視という手段でも行なわれています。
19分〜以降
まとめ
言論封殺、言論統制を小さな視点と大きな視点で考えてみましたがいかがでしょうか。
私も好きなことを書いているものですからこのような言論統制や言論封殺が行われている現状は非常に嘆かわしく思っています。
我が国の憲法が保障しているのは、「個人の権利」です。
しかし、思想の自由、言論の自由、表現の自由、プライバシー権、が現実になくなってしまえば結果として、私的財産等も奪われることになり、権力にとって都合の良い考え方しかできなくなるのでしょう。
何故なら、私的財産の可否すら議論できなくなるからです。
その時点で日本国憲法は、なんの意味もなさなくなります。
単なる「建前」でしかなくなるのです。
そのような社会になったら日本人は何を目的に生きていくのでしょうか?
金、スポーツ、エンターテイメント、セックスだけを求めるのでしょうか。
番外
最近、下関市に行った友人が言ってたんですが下関市にはコリアンタウンがあるそうでそこでは韓国ウォンで支払いがされていたという話を聞きました。
日韓国境を肌身で感じる街!下関駅前のコリアタウン「グリーンモール商店街」
下関市と言えば安倍首相の選挙区ですが我が国で韓国ウォンが流通することなど絶対にあってはならないことです。
ググってみたらみたら結構有名のようでした。
通貨は安全保障にも関わる事柄ですが、「保守」とされている安倍首相の選挙区というところがなんとも香ばしいですね。
それにも関連しますが、北朝鮮とアメリカは完全に結託していることは周知の事実となっています。
平壌から横田基地への直行便が出ているなんてことは本当に安全保障上の問題があれば200%あり得ません。
遺骨収集が理由だという説明をする人も居るようですが、リアルタイムで戦争中の相手に遺骨返してと言って、はいわかりましたとは普通はならないでしょう。
それはそれこれはこれだという反論もありそうですが、そうだとしたら戦争というのは茶番だということになります。
少なくとも「ガチ」ではないということになります。
金正恩のイケイケを装う三文芝居が客観的な事実によって証明されたのでしょう。
戦争というのは見方によって様々です。
「国家間の紛争」
「企業の金儲け」
「世界各地のロイヤルファミリーの謀議」
「供給力の潰し合い」
「民族間の衝突」
「大衆統治の一環」
一口に戦争と言っても、少なくともこれだけの視点があるわけですから、戦争という概念をひとつに絞れば、誰かに誘導されるリスクが増大するので注意が必要です。