マスメディア、インターネット、SNSなど様々なメディアや書籍を観て、色々な意見を観ていると共通して感じるものがあります。
それが「正しさを競い合っている」ことです。
私も当ブログを書いていくにあたり、自分の考えをできる限り真摯に、読者の役に立つ内容を発信してきたつもりです。
ですが、ブログ記事の中で、「正しい」という言葉は極力避けてきました。
便宜上、使用したこともありますが、私はこの正しいという言葉、概念を非常に懐疑的に観ています。
私は基本的に正しいことなんてひとつもないと思っていますし、正しい、正義という概念が闘いを生む側面もあると思っています。
全て悪なら正義の概念など存在しない
例えば、仮面ライダーやアンパンマンなどで考えるとイメージしやすいのですが、悪の軍団とされるショッカー達は”彼らなりに”平和に生活しています。
そこには支配も理不尽もあるでしょうが、それなりに彼らの社会は回っていたところに、仮面ライダーが現れ「お前たちがしていることは悪である」と決めつけ、ボコボコにして去っていくといった構図です。
今の仮面ライダーではなく昔の仮面ライダーの構図はこうでした。
それいけアンパンマンもバイキンマンのしていることを悪と決めつけ暴力で空の彼方までふっ飛ばします。
ここで私が言いたいことは、悪だろうが善だろうが元々そんなものは存在していなく、人間が悪と正義の概念で分かれ、啀み合っている構図が作られているということです。
さらに本質的なことを言えば、「悪も正義も人間が観測するまで存在しない」といったことです。
実際、宗教にしても、右翼、左翼、保守、リベラル、グローバリズム、反グローバリズム”何故か”分けられています。
聖書においても、「神は言葉とともにあった」、「はじめに言葉でありきであった」というフレーズが書いてあるのに、俺たちの信じる神が正しい、豚肉食べない、牛肉食べないなど、宗教間で垣根が存在し、自らの正しさを主張し闘っています。
日本の旧字体では神を「神」と書きました。
例のごとく、GHQに変えられたわけですが、「示すに申す」とかいてカミと読むということは間違いなくこのことを言っているのであろうと思うのです。
仮にそうであるなら、神は全ての人間のことですし、その神である人間が創造したものや、この世にあるすべての物に魂、靈が宿るということになり、また宗教に正しいも間違っているもないということになります。
私自身、宗教とは基本的に無縁ですし言ってみればアニミズム信者に近いと思っていますから、神の正しさを競い合っている現実が、違和感でしかないのです。
バチカンや現在の宗教と呼ばれるものが神や仏とは全く遠ざかっている現実は、宗教というツールが大衆を統治する目的で”分けられた”ように観えるのです。
大衆支配のやり方〜大衆の取扱説明書〜
いわゆる分断統治、両建て戦略、弁証法です。
最初から悪など存在せず、分断を目的として「正義」なる概念を作り出し、それに対する概念を悪としたに過ぎないということです。
よく言われるのは正義と悪ではなく、「正義ともうひとつの正義」という言い方です。
この言葉にも何やら意図を感じます。
確かに「正しさ」という心を持っている人が行動に移すからこそその正しさ同士でぶつかって、相手を悪と断じ、互いに攻撃するが相手も自身を正しいと思っているといった理屈はわかるのですが、疑問は、
「その正しさに行き着くために得た情報は正しいのか?」
「その情報に誰かの意図が加えられている可能性は?」
といったことです。
正義に対するもうひとつの正義が存在するなら闘争はなくなるはずがありません。
民衆が民衆同士で正義を振りかざして闘うという構図は誰にとって都合が良いのでしょうか。
善悪など存在しない
あらゆる動植物は他の生命を取り込むことで生命を繋ぐわけですから、その時点で人間が罪深き存在であることは否めません。
悪という人間の作った概念、理屈で言えば、そもそも全てが悪であって、大義名分を元に誰かを断罪すること自体もおかしいことということになります。
その行動は自分を正しいと思っているからできる行動です。
「正しい」を捨てなければ人類は成長できずに延々と憎しみ合うのだろうと。
水は低きに流れるからこそ自然体である
もちろん、政府が狂っている、マスメディアがイカれている、その他様々な問題が社会に存在することは事実です。
様々な新自由主義的政策の推進、国際金融資本の謀略、多国籍企業の支配、メディアの知能破壊など挙げればきりがありません。実際もううんざりでしょう。
なんとかそれを阻止したい気持ちもありますし、なんとか少しでも遅らせたいという願望はあります。
ですが、このブログを読むような方は情報によって精神的に追い詰められているかもしれません。
意図して追い詰めているわけではありませんが、そのレベルにおいては私も人を追い詰める「悪い人間」と言えます。
無理は「理が無い」ことです。
水は低きに流れ、人は易きに流れると言います。
易きに流れることと、水のように自然に逆らわないことは別の話です。
少し肩の力を抜いて、「正しい」に囚われずに無為自然に、あなただけの、自分自身の道を歩んでいって欲しいと切に願います。