私はこの世で必要ない者は経済学者だと思っています。
何故、私がそう思うのかを説明します。
そもそも経済とはなんなのか?
目次
あなたは経済と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
多くの人は、「お金」、「経営」などを思い浮かべます。
ところが、それは全くの誤りです。
経済という言葉は「経世済民(けいせいさいみん)」
つまり、「世を治め、民を救う」という意味なのです。
しかし、実際の我が国の「経済」を見る限り、とてもこの目的を達成しているとは言えません。
デフレは20年以上続き、失われた20年という言葉も生まれ、非正規雇用も増え、賃金も下がり、自殺者数も実際には増えています。(遺書がなければ変死扱いとなるため)
どうして、GDP世界三位、実質二位の我が国の国民がこのように貧困になるのか不思議に思ったことはありませんか?
私は非常に不思議に思いました。
我が国よりもGDPが低い国などゴマンとあります。
それにもかかわらず、何故か一般国民は生活苦になる。
何故そうなるのか、何故、日本国民は貧しいのかを調べたところ経済学者に問題があるという結論に達しました。
私は、
「日本は豊かだが、日本国民は貧しい」
と思っています。
新卒の初任給が20年も変わらないことなど正しい経済政策を行っていればありえないことです。
経済学者の実態
経済学者が何故必要ないのか。
結論から言えば、
「経済学者の言っていることが正しければとっくにデフレは脱却している」
からです。
経済学は大きく「供給側の経済学」と「需要側の経済学」とで分かれます。
主流派経済学(供給側)では現実を分析する学問ではありません。
ただの机上の空論なのです。
その理由は以下の理由からです。
①主流派経済学の論理にサッチャー、小泉純一郎を代表とする新自由主義思想を合体させた。
(小さな政府、財政均衡主義、市場原理の追求などで敗者となった者には自己責任と吐き捨てる思想)
②主流派経済学(ミルトン・フリードマンを代表とする新古典派経済学)は、現実にはあり得ない前提で結論に達する。
主流派経済学には「経済人」という言葉があります。
主流派経済学で言うこの経済人は、経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する人間のことです。
更に、セイの法則(供給は自らの需要を生む)と言われる物々交換でなければ成り立たない前提であり、更に完全雇用を保証しているのです。
供給は自らの需要を生むという意味をもう少し詳しく言えば
「作れば作るほど、買い手は増える」ということです。
この時点で、デフレという需要不足の状態を理解していないと言えます。
実にふざけた学問です。(新古典派経済学に異を唱えたのがジョン・メイナード・ケインズとヨーゼフ・アロイス・シュンペーター)
言うまでもありませんが、論理的結論は前提条件に依存します。
前提が現実世界とかけ離れているのに、経済学者やエコノミストはしたり顔で経済学を根拠に
「現実経済」を語っていたということになります。
③経済学には国家、民族、安全保障という概念が存在していない。
新古典派経済学経済学にある経済主体は経済人という個人のみです。
国家が無ければ安全保障も無いのは容易に想像がつきます。
安全保障を簡単に説明していますのでよろしければこちらをお読みください。
要は経済学者が強大な影響力を持ったら、国家に存在する文化や習慣、環境などが新古典派経済学の論理で破壊されるということです。
④パレート最適が正しいという思想。
パレート最適の引用。
一般的には、
「ある人の効用(利益)を増加させるには他者の効用を減少(奪う)させなければならない状態」
です。
これはもはや弱肉強食に直結する論理です。
だったら最初から弱肉強食の世界を提唱すればいいのに難解な言葉を使って、煙に巻こうとする姿勢が経済学者の特徴と言えます。あくまで新古典派経済学の学者ですが。
⑤新古典派経済学に不況も非自発的失業者は存在しないことになっている
簡単に言えば
「解雇されたものはいない」
ということです。
信じられますか?
ハローワークで職探ししている人を、その人にとって職探ししている方が得だから職を探しているに過ぎないと言っているんです。
これは、新古典派経済学に「不況」が存在していない、もっと言えばデフレに対応していないということです。
主体的均衡と言われるものでこれは、乱暴に言えばパレート最適状態が維持しているので、特段の問題はないと結論付けます。
経済学者の罪
最も代表的なモノが
「国の借金で破綻する」
という財政破綻論です。
実にバカバカしい理論ですが説明します。
2003年に吉川洋東大教授と伊藤隆敏コロンビア大教授が
「政府債務残高がGDP比200%を越えると財政破綻する」
と緊急提言しました。
彼らの主張は、
財政破綻が近づけば国の信認が低下し、国債が暴落、長期金利が上がって、円が暴落して大混乱になるといった主張でした。
さて、現実はどうでしょうか?
財務省によれば200%のラインは2011年に越えて2015年のの債務残高の対GDP比は230%を越えると予想されています。
一方の金利はどうなっているでしょうか?
御存知の通り、現在は「マイナス金利」が導入されています。
金利が高騰するのではなかったのでしょうか。
彼らの主張によれば日本国債は紙くずになっているはずですが、国債は銀行をはじめとする保険会社、年金基金など大人気です。
2016年6月末時点(速報値)日本国債の所有者別内訳(総額は987兆円)
引用:日本銀行「資金循環統計」
量的緩和によって、日本銀行が買い取っていますので、実質は更に少なくなっています。(日本銀行は政府の子会社です)
そもそも、通貨発行権を持ち、自国通貨建ての国債が破綻するなどあり得ないのです。
このことはノーベル経済学賞を受賞した、ポール・クルーグマン博士も言っております。
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第3に私が指摘したいのは、債務についての懸念という点です。
私はこれをただ無視しようというのではありませんが、我々が日本のみならず他の先進国からも学んだことがあります。
それは、安定した先進国が自国通貨で借入をしたならば、財政危機に至るまでは非常に長い道のりがある、ということです。
人々は2000年ごろから、日本国債が下落するほうへの賭け〔日本国債の空売りなど〕をしてきました。
その人たちはみな、ひどい損失を被りました。市場〔国債市場〕の頑健性 は非常に強いのです。
そういう〔日本国債暴落という〕シナリオを描くことさえ難しい
もし誰かが「日本はギリシャみたいになる」と言ったならば、「どうしたらそうなるの」と聞き返すのみです
日本は自国通貨を持っているのです。起こりうる最悪のことといえば、円が下落 するかもしれないというですが、それは日本の視点からはよいことなのです。
私としましては、心配すべきことではないと考えます。
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しかし、ここで重要なことは先に挙げた御二方の主張が完全に誤っていたことです。
現在は伊藤元重東大名誉教授がこの御二方の論を踏襲していますが、本当に情けないと感じます。(是非訴えてください)
いくら根拠を提示しても、彼らは反省などしません。
それどころか、いずれ破綻すると今だに財政破綻を煽っています。
「厚顔無恥」という言葉がぴったりのカノ国とそっくりです。
次に、彼らが持ち出したのは「財政健全化論」です。
いわゆるプライマリーバランスの黒字化という昨今よく耳にするあれです。
プライマリーバランスの黒字化とは、簡単に言えば
「政府の支出よりも歳入を上回るようにしよう」
ということです。
要は、「プライマリーバランスが黒字化できなければ財政破綻する」と戦法を変えてきたのです。
企業はそれで良いですしむしろそうでないといけませんが、国家に同じ理屈は通用しません。
なぜなら日本政府には「通貨発行権」と「徴税権」があるからです。
また安倍政権は税収が増えたと主張してまるでそれが手柄かのように言っていますが、
それは、国民から奪ったカネが多くなったすごいでしょ?って話です。
完全に国民をバカにしてます。
こんな理論を作る学者も学者ですが真に受ける政治家にも困ったものです。
これでも消費税を10%に上げると言うタイミングでも彼ら学者や財務省は
「国債の信認低下による金利急騰に対する懸念」
を理由に増税を主張しました。
嘘を言う時に経済学者が使う手法
彼らの主張は間違っている上に常に漠然としており、非常に抽象的な表現を用います。
以下に例を挙げます。
「財政ファイナンス」
「国家の信認」
「通貨の信認」
「財政規律の保持」
「自由」
「市場メカニズム」
などなど、定義が曖昧な言葉を使って煙に巻こうとするのです。
経済学者が意味不明なことを言い出したら注意してみてください。
新古典派経済学者は信じてはいけない
このように、新古典派経済学者は嘘を付きますし、
その嘘を覆い隠すためにまた更に嘘を付き政策に影響力を発揮しています。
私はインフレ期であれば彼らの言うことは非常に参考になると思いますが
今はデフレ期ですので参考どころか害であると断じます。
これまで言ってきたように、新古典派経済学は
「現実の経済を分析するものではないから」
です。