昨日いわゆる「共謀罪」、「テロ等準備罪」が閣議決定されたようです。
さすがにテロを計画しようとは思いませんが、監視社会のレベルはひとつ上がったのかなという気がしないでもありません。
また先日以下の記事の中で水道民営化の危険性を出来る限り指摘しましたが、7日には水道事業に関わる法改正案が閣議決定されています。
閣議決定の段階なので今後どうなるかまだわかりませんが、と言いたいところですが閣議決定されるということは与党内で既に調整済のはずなので実質的には「可決」と同義と私は考えています。
最近は森友問題や金正男の件で持ちきりでしたので、余りにも目立たずに閣議決定されましたが、一昨年末の農地法改正、いわゆる農協改革の時もほとんど報道されていませんでした。
恐ろしい法案が通る時ほどマスメディアは国民が”気付かないように”ある事件だけを大々的に報道します。
意図して行っていることは間違いありません。
「数字が取れない話題だから」なのか「隠したいのか」それとも他に何かあるのか知りませんが”意図的”であることは間違いないでしょう。
今回の水道事業でも郵政でも鉄道でも電力でも”構造改革”とされているものがほぼ「民営化」、「自由化」であるのは何故でしょうか?
またデフレ期になぜ民営化、自由化が善とされるのか?
この記事ではその辺りを考えてみたいと思います。
構造改革とは本来”民営化”を指しているのではない
目次
構造改革とは構造を改革することです。
つまり、既存のある体制やシステムを”リセット”し、作り直すことです。
本来はリセットという意味はありませんが、構造改革という言葉には、”ひっくり返す”とか”抜本的”といったリセットのニュアンスが含まれています。
というよりも、メディアが取り付けたニュアンスです。
私はこの構造改革というモノを「革命」だと感じています。
よくよく考えてみてほしいのですが、今あるものを抜本的に構造を改革するということは、それまで存在した体制なり組織なりを根本的に覆すということではないでしょうか?
私はそれって革命って言うんじゃ…と長い間、違和感を覚えていたのです。
大阪の市長もグレート・リセットとか抜本的構造改革ということをよくアピールしていたように記憶しています。
ちなみに我が国ではその”革命家”が「保守」として扱われています。非常に不思議なことです。
構造が悪いからだとか、既得権益があるからだ、と国民のルサンチマンを煽り、公務員などの行政に関わる人間を敵として設定し、民営化を推し進めるといった構図です。
しかし、この構図には政治家、知識人、学者、企業など多くの人間の利益が絡んでいるのです。
別に我が国を良くしようとか大層なことを考えているわけではありません。
そして外資規制が無いということは、
「民営化とは”外国の人間や組織”に国営事業を売り渡すこと」
でもあります。
目的は利益のためだけです。
民営化、自由化が善とされているのは何故なのか?
これはアダム・スミスを始祖とする古典派経済学の市場原理主義が発端です。
新古典派経済学では自由競争は善、市場原理に従うことが善とされています。
市場で負けた者は、非効率だから負けたんだと、需要のあるサービスをできなかったからだと、つまり自己責任として片付けます。
これが自由競争、市場原理に基づいた経済活動となります。
乱暴に言えば古典派経済学では政府の規制、管理は行うべきでなく、マーケットに全ての経済活動を任せれば、「見えざる手」が価格調整してくれるといった、「考え方」です。
この市場原理主義と新自由主義の自己責任論が結びつき、更にデフレ経済であることで、生活が苦しい国民のルサンチマン、(権力者、主に公務員などに対しての妬み嫉み)をメディアが煽り、「既得権益をぶっ壊せ」のスローガンの下「民営化、自由化」が進められました。
経済成長は御存知のとおり全くと言っていいほどしていません。
出典:内閣府
国民の側も、民営化、自由化などの規制緩和が経済成長させるからとかそんなことは考えていません。
ただただ現状の不満を、ぶつけられる相手を”用意してもらって”徹底的に叩き溜飲を下げているだけなのです。
つまりは足の引っ張り合いです。
国民はその行いが自らの首を締めているとは考えていません。
国民は「既得権益をぶっ壊す」とか「グレート・リセット」とか「自由競争の導入で効率化」などの言葉に踊らされているということです。
そして、メディアに出てくる学者などの知識人と称する人間はこれらの規制緩和を大層な肩書きで、
「正しいこと」とします。
つまり自由化、民営化が善とされているのは、新古典派経済学に基づく新自由主義思想が多数派であって社会の風潮がそれに合わせ、「正しい」と国民に認識されているだけなのです。
デフレ時の民営化、自由化などの規制緩和は人を殺す
現在はデフレです。
いくら政権与党がデフレではないと言ったところで物価も上がらず、賃金も上がらず、消費も増えずとなれば、それはデフレです。
デフレというのはノーベル経済学者のジョセフ・スティグリッツも言っていますが、「需要の不足」です。
逆に言えば「供給が需要よりも多い」ということです。
供給が多いのなら需要を増やせば良いと自然に考えれば良いのですが、主流派の経済学は「生産すれば必ずものは売れる」と設定されていますので供給を増やせば景気回復するとこの20年行ってきました。
そもそも、「作れば必ず売れる」ことなどあり得るのでしょうか?
もしかした需要が多く供給が不足している環境であれば成り立つかもしれません。
仮にそうだとしても、作れば売れるのであれば、在庫など全く無いということにもなります。
何が言いたいのかというと主流派経済学現実を前提としない学問であり、また現実を説明する学問ではないということです。
セイの法則、マンデルフレミングモデル、トリクルダウン理論、クラウディング・アウトなどデフレ期に成り立っていない理論は多くあります。
デフレは「貨幣現象です」と言って量的緩和でマネタリーベースを増やせばデフレ脱却出来る”ような”ことを言っていましたがそれも最近になってできませんでしたとなりました。
経済学の欺瞞と嘘は他にも数多くありますが別の記事でご紹介致します。
要は、主流派経済学というのは供給を増やすことで需要が伸びると考えているということです。
では自由化、民営化というのはどういった政策なのかというと、一言で言えば「供給を増やす政策」なのです。
つまり、インフレ時の時にすべき対策なのです。
なぜ民営化は供給を増やすのか?
民営化とは、元々国家が主導して運営されていた事業を民間企業が行えるようにするということです。
企業は当然ですが利益を出すことが目的です。どんなに崇高な企業理念を掲げていてもつまるところそこなのです。
一方政府というのは、NPOです。非営利団体です。
利益よりも国民の生活を守ることが目的です。
だからこそ鉄道、物流、食料、電力、水道、ガス、通信などの生活インフラの分野を政府が担ってきたのです。
細かいことを言えば業務の一部を民間に委託したりもしますが、指名競争入札であったころは高品質のものを作れなければ指名されないという壁があったので民間企業は自然と企業努力で高品質なものを作ろうと心掛けます。
目的が利益の企業と、目的が利益ではない政府、根本的に目的が違う組織が運営することになることが民営化です。
民営化をすれば、その民営化された事業に参入する企業が出てきます。
基本的に大きな資本力を持つ企業が参入することになります。
そして参入した企業の競争が始まります。
供給が増えるというのはこのタイミングです。
しかし、デフレ期には需要がありませんから、参入した企業の供給の全てを満たすことはできません。
いずれ淘汰される企業も当然出てきます。
そして、競争に勝った企業が市場を独占するのです。
それも利益を目的とする企業数社が独占します。
その時点で国民の側は既にサービスの選択ができない状態になります。
民営化される前と同じです。
違うのは利益を目的とする企業が運営しているということです。
そうなれば企業と消費者の関係は圧倒的支配関係になるでしょう。
例えば、「うちの電気使いたくないとか言っているけど、他に電気供給している会社あるの?ないでしょ?じゃあうちを使うしかないよね?電気のない生活でも良いならどうぞ。
うちの電気使うんなら、これだけ払ってね(所得の4分の1)。値下げしないから」
極端に思うかもしれませんが、これがまかり通る可能性があるということはご理解いただけると思います。
1 供給を増やすことで競争が激化(供給が増える)
2 市場原理に負けた企業が淘汰される
3 市場原理に勝った企業数社が独占する
4 料金が固定化される
5 利益が出なければ撤退する
といった大まかな流れです。
需要が増えないのに、供給を増やしても供給者同士で削り合うだけ(価格競争)です。
これが人間の生活に関わらない分野であればまだ良いですが、そんな小さなマーケットは企業は狙いません。
最終的に生きていく為に、国民の側は、利益至上主義の企業を選択するしかなくなることで、水も飲めない、電気も使えない、財政が厳しいとか言われて生活保護も受けられない、生きていけないと、こんな風になる人間を自己責任と一蹴できるのでしょうか。
彼らはするのです。利益のために。
これが弱肉強食思想、「新自由主義」であり、現在我が国で「保守」と分類される連中の考え方です。
この思想を持つ政治家や学者など経営者の言う「保守」の対象は我が国ではなく、「自分の身」です。
要は「保身」ということです。
レントシーカーの次のターゲットは何でしょうか?