市場原理主義、自由競争、その為の規制緩和や構造改革など、新自由主義的な政策が推進されてきましたが、不思議な事に新自由主義の相方の新古典派経済学の理論で我が国は全くと言って良いほど「経済成長」していません。
新古典派経済学は大雑把に言うと「政府は何もしなくて良い」、「最低限のインフラの整備だけで良い」とします。
市場には自己調整機能があるから政府が市場に介入すると市場メカニズムが壊れるなどとするのです。
アダム・スミスの「見えざる手」ですが、この見えざる手とは市場の価格調整機能のことです。
簡単に言えば、良いものを作れば、その商品はいっぱい売れるので価格が上がり、良くないものなら売れずに価格が下がり、それを作る企業は淘汰されるといった考え方です。
正に自由競争ですが、この自由競争の言葉には重大な欠陥があると私は思います。
この記事では市場原理主義の欺瞞や自由競争による弊害などを考えて見たいと思います。
自由という言葉を使う意味
”自由”競争、”自由貿易”、”自由な市場”など主流派経済学にはよく自由という言葉を使います。
そもそも自由という言葉の定義は何なのでしょうか?
一般的に自由と言えば、「好きなように」とか「誰からも干渉されない」といったイメージになっているかと思います。
また、この「自由」が極まった世界とは一体どのようなものになるのでしょうか?
主流派経済学は、経済活動は市場に任せ、民間に自由な経済活動をさせれば市場の価格調整メカニズムによって均衡するという考え方です。
政府の規制があることで経済活動は阻害されるとし、経済成長の邪魔をすることはやめるべきと続けます。
主流派経済学には国家の概念もありませんし、安全保障もなく、民族、文化、習慣など、さらには
「お金」もありません。(お金は「物」としています)
あるのは「個人」のみです。
それも経済合理性のみを考えている、情報が共有された個人です。「経済人」と言ったりします。
その経済人が自由に経済活動すれば理想的な経済を実現できるとするのです。
しかしいくつか疑問があります。
第一に「そんな奴はいない」ということです。
これは誰でもそりゃそうだろと思うはずなので説明を省きますが、この経済人について私は「野生の動物」のことを指しているのではないかと思うのです。
このような経済合理性のみを追求する人間はそもそも「人間」ではありません。
理屈に合わないことも平気でできるのが人間です。
そこには愛だったり義理だったり、友情だったりと精神的なものが含まれるでしょう。
動物にこういった感情が無いとは言いませんが、人間と野生の動物とを比較すると野生の動物のほうが当てはまるのではないかと感じます。
大体、学問として経済学は一応成立しているのに、人間の定義をこのような「人間とは言い難い人間」を定義していることに、強烈な違和感と欺瞞があると考えるのは私だけではないはずです。
しかし、これは経済学では「個人の自由な市場競争」となるのです。
次の疑問ですが、「多くの前提を必要とすること」です。
自由貿易で成長するとはよく聞く言葉ですが、成長するためには、前提としての条件が整っている必要があります。
例えば、完全雇用が成立していることや資本移動の自由が設定されていること、輸送コストが0であることなどです。
輸送コストが0とは恐れ入ります。
それを現実に当てはめようとしているのですから、欺瞞も良いところです。
彼らの頭の中では「どこでもドア」が実用化されています。
また失業者についてですが、経済学では失業者を自発的失業者とします。
失業率がどれほど高くても自発的失業者とし、働けないのはその人に能力がないために、
「雇用のミスマッチ」があるのだとするのです。
こう言わなければ新古典派経済学という学問は成立しないのです。
だからこそ、働けなくて苦しんでいる人間が大量に存在していても「長期的には完全雇用は成立している」と悪魔のようなことを言うのです。
頭がまともな人間はこんなこと言えやしません。
ケインズが「長期的なんてことを言っていたら我々は死んでしまう」と言ったことは至極まっとうですし、ケインズも呆れていたことでしょう。
このように主流派経済学というのは、そもそも存在自体が怪しいとも言える学問なのです。
怪しいからこそ、「自由」という言葉をしきりに使い、学問や大学といった権威を背景に、知らない人を欺こうとするのです。
「耳障りの良い言葉」を多用する人間は、私の知る限り、「共産主義者」と「詐欺師」と「主流派の経済学者」です。
本当に詐欺師そっくりで目つきも蛇みたいでそっくりです。
よーく観てみてください。
目の奥が暗いのです。
黒いのでは暗いという感じです。
そう感じたら是非、バカにしましょう。
もし、「自由」が極まったらどのような世界になるのでしょうか?
私は以下のようにイメージしています。自由な世界には政府はありません。
人間が生まれる時は、基本的に病院で生まれますが、病院の医師は自由なので医師という肩書そのものが意味をなさないようになっているので、どこの馬の骨かわからない人間が出産に立ち会うという状況にもなるでしょう。
別に病院だけでもないのでしょうし、生まれた子どもはどのようにしても自由です。
その子どもは自由に生きていきます。
学校もバウチャー制度になっているはずなので、好きな学校に行けますが、行かなくても良いわけです。
街に信号機はありません。
電気ガス水道などのインフラもありません。
自己責任で発電し、水もどこからか汲んでくることになります。その水には所有権があるので水の利用料を払います。
自給自足は成り立ちません。
その世界では自由に所有権が設定されているので、何をするにもお金がかかることでしょう。
もちろん道路を車で走る時には通行料を支払うことになるでしょう。
食料は売っているでしょうが、異様に安い食物に似せた食料が主流になるはずです。
ちゃんとした食料を食べるにはお金を多く支払わなければいけません。
国民という概念はなく、皆保険制度ももちろんありません。
医者にかかれば1粒20万円の薬を買わなければ死ぬという選択を迫られることになるでしょう。
払えないなら、安楽死の薬もありますがどうですか?そっちならあなたの加入している保険でまかなえますよ?
もっとあるでしょうが、こんな社会が経済学でいう「理想的な社会」で「自由な社会」です。
極論だと反論されるでしょうが、政府を否定し、自由な市場、自由競争、規制の撤廃をやり終えたらこれに近い社会は成立するのです。
私は、このような社会を、
「先進的野生社会」、「弱肉強食社会」「ニューワールドオーダーの成れの果て」
であると理解しています。
自由にも限度があります。
自由を突き詰めれば、それは”弱肉強食の世界”となり、政府の規制を突き詰めれば、「共産主義社会」になるのです。
なんでも限度がありますし、物事はバランスです。
どこに位置するかはお国の事情で違うのです。
このような自由を前提とした経済学は、最早、経済の目的を大きく逸脱していると言わざるを得ません。
経済とは経世済民です。「世を治め、民を済う」ことです
つまり経済政策の目的は、「国民を豊かにすること」ですから、そもそも「痛みに耐えろ」といって国民が豊かにならないのであればそれはもう、権力による暴力となるのです。
現在の日本人の大半は、その痛みすら忘れて暴力を受け続けて、また忘れての繰り返しのように見えます。
こういうことを言うと、政治と経済を分けて考えろという反論されますが、そもそも経済という言葉が作られた、「Political economy」という言葉から作られた日本語です。
そもそもが、経済には政治が含まれているということなのです。
言い方を変えれば、経済の下部構造には政治、安全保障が存在し切り離すことができないということです。
切り離せと頑なになるというのは、おそらく、経済とビジネスを混同しているのでしょう。
日本人は個人としての教育をGHQから受けていますし、全体を考えるという発想はできても国家観もないので、全体となると”グローバリズム”と考えるのです。
おまけにお花畑的な平和主義はグローバリズムと相性が良いので戦後日本人の大半には受け入れやすい価値観なのです。
ここまでの話を踏まえると「自由」という言葉に猜疑心が生まれますし、非常に懐疑的な言葉になります。
「自由、平等、博愛、人権」
こういった否定することに勇気を必要とするであろう言葉には、一定の層からすると非常に高い利用価値があるので、注意が必要です。
自由競争の”自由”が実現して利益を享受する者
さて、今日でいう自由とは主に「グローバリゼーション」を指すことになっています。
”地球市民”、”国境なき時代”、”国境を越えたコミュニケーション”などなど非常に綺麗な言葉でグローバリゼーションが肯定されてきました。
結果は、イギリスのEU離脱、トランプ大統領の誕生、フランス大統領選挙でのルペン氏とメランション氏の得票が40%になったことなど、明らかに世界の潮流はこれまでのグローバリゼーションの方向からシフトしているといった状況です。
マスメディアでは、イギリスのEU離脱の際にはPC(ポリティカルコレクトネス)さながら、離脱を揶揄、非難していました。
離脱派を短期的な視点、利己的、ナショナリスト、右傾化などとレッテル貼りをして、ほとんど離脱派はバカくらいの反応を示していました。
バカはどっちでしょう。
メディアやグローバリスト達が偽の自由を作り出してきたことに気付かれただけの話です。
ロスチャイルドやロックフェラー、JPモルガンなどの国際銀行家や華僑、軍産複合体などにとってこの「偽の自由=グローバリゼーション」は非常に多くの利益を生み出します。
特に金融に大きな力を持っている層はお金の力、金融の力を利用して、グローバリズムの名の下で途上国を支配し、あるいは世界銀行を通じて、緊縮財政と構造改革を行わせ途上国をボロボロにしました。
また、途上国や政府機関として中央銀行を設置している国にイチャモンをつけ、BIS系の中央銀行を創設をすることで金融支配を強めようとしてきました。
リビアなど良い例かと思われます。
NATOの懺悔を見てみたい〜カダフィ大佐とリビア人が受けた理不尽〜
グローバリズムは「ヒト・モノ・カネの自由な移動」をできるだけしようという考え方、イデオロギーです。
ヒト・モノ・カネが自由に移動すれば必ず、需要の高いところにヒト・モノ・カネが集まります。
企業の低賃金労働の需要がとても高いとなれば、企業は低賃金労働を輸出できる国に投資を行い、そこでできた製品が低賃金ではない国に輸出され、安い価格で販売されます。
日本企業が中国に工場を移し、中国で出来た製品を日本に逆輸入という形で安価な製品を販売するという構図です。
そうなることでデフレはますます加速します。
デフレの国はグローバリゼーションで供給力を増やしてはいけないのです。
デフレは供給過剰という状態なのですから、すべきことは誰かが需要を作ることと貨幣供給量を増やすこと同時に行うことです。
なぜ、財政出動と金融緩和という基本が行われず、新自由主義的な新古典派経済学の教義に基づいた政策が実行されたのでしょうか?
私は、デフレを維持したい人間の意思が、政府中枢の人間に反映されていると考えています。
以下の記事でデフレ経済でメリットを受ける者達を考えていますので参考にしてみてください。
この記事に関連して、”自由”市場で自由競争であることで利益を受けられる者が存在します。
それは、
「大資本」
「グローバル企業」
「グローバル投資家」
「人材派遣業」
などが考えられます。
そもそも社会というのは平等ではありません。
貧困家庭に生まれる人もいれば、富裕層の家庭に生まれる人もいます。
企業も設立当初は基本的に小さい規模からスタートします。
その時には、既に大企業、大資本が存在しています。
自由な市場で競争するということは、大企業も零細企業も同じ条件で戦うということです。
これで、多くの零細企業が大資本に勝てる方法はあるのでしょうか?
イノベーションでしょうか?ランチェスター戦略でしょうか?ニッチな市場でしょうか?
自由な市場、自由競争という檻の中では基本的に「体力勝負」になってしまいます。
どちらに分があるのか言うまでもありません。
規制緩和の”規制”とは、そもそも社会を公平にするためのシステムです。自由ではありません。
例えば、資本金は〜円以上でなければいけないとか、~年間黒字でなければいけないとか、駐車場はこれだけの広さがなければいけないとかとか、色々あります。
これらの規制にはひとつひとつ理由があります。
人材派遣業の資本金の下限規制に関して言えば、もしその派遣会社が倒産などしてしまった場合の債権者(主に派遣労働者)の保護の目的があります。
私個人の考えでは、そんなことするなら最初から派遣労働など禁止して、正社員登用をした企業に一定期間助成金をあげる方がよっぽどマシだと思います。
派遣業など単なるピンハネです。
元々、暴力団関係者がよくやっていたいわゆる”シノギ”です。
それを法律でやって良いとしてしまい更に、派遣労働の制限も年々、緩和の方向に拡大していっています。
これは何を意味しているのかというと、
「派遣業にとって都合の良い政策が進められた」
ということです。
デフレで所得が下がって非正規が増えているという問題は叫ばれている一方、国民の所得を下げ非正規雇用が増えるような法改正が進められてきたということは、政治家にしろ、派遣業の連中にしろ、「自己の利益」しか考えてこなかったということです。
労働者に対する搾取という点ではあからさまな業種である派遣業が、政策によってススメられてきたという事実は非常に恐ろしいことだと感じます。
基本的に人材派遣業もグローバル企業も国家観などないので、安い人件費を輸出できる国に生産拠点を移します。
そうすることで、先進国の国民は失業が増え、所得が下がり一方の低賃金労働を輸出できる国の国民は、所得が上がるわけです。
そして、一般大衆の賃金、所得はフラット化していくのです。
「同じ国の国民よりも、利益を優先する」
これが「市場はグローバルだから」の正体であり、「自由競争」の正体です。
少なくともこういった事実があることは確かなことです。
彼らの発想は「個人」が大前提なので、国家を全体で考えることはせず、人に対する優しさを与えることは、家族や友人などの身内だけに限定されます。
彼らは自ずとデフレ容認派となります。
当然です。
既に自分の所得は多く、デフレで物価が下がったほうが本人にとっては都合が良いので、弱い者は自己責任と切り捨てることができますし、「自分が死んだあとのことはどうでも良い」とも言いますし、EUの現状を観て、「経済がうまくいっていないことを移民のせいにしてるだけ」などと言えるのです。
確かに個人でしか物事を考えられなければ、この論理は正しいのです。
とは言え、個人は一人で生きているわけでもないのです。
ある”個人”が富裕層だったとしても食料やサービスを享受できないのであれば、果たしてそれは富裕層と言えるのでしょうか?
金だけでは本質的には人は救えません。
供給能力に通貨の価値は依存していますので、仮に戦後のように東京が焼け野原になれば一気にインフレは加速してしまいます。
少し話は逸れましたが、自由競争、自由な市場で利益を受けられる者は確かに存在するし、その者達は、国家や国民などのことは本気では考えず、個人の利益のみを優先するのです。
アダム・スミスは「”神の”見えざる手」とは言ってない
アダム・スミスが書いた国富論での有名な言葉
「”神”の見えざる手」
誰もが神の見えざる手と言います。
しかし、国富論の原文には”神の”という言葉は入っていません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
原文
he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of
the greatest value, he intends only his own gain; and he is in this, as in many other cases, led by
an invisible hand to promote an end which was no part of his intention.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
となっています。
誰が、いつ、どこで、何の目的があって”神”という言葉を付け加えたのでしょうか?
私の推測では、古典派の経済学者達がケインズに対する反論のために”神の”を付け加えた可能性や、古典派の経済学者を利用した財界の人間が付けた可能性が高いと思っています。
欧米の大多数はイエス・キリストを信仰していることはご存知かとは思いますが、彼らは神=イエス・キリストと信じて疑いません。
見えざる手に”神の”と付けることによって、「神がお決めになったこと」、「神が選択した運命」と言ったようなイメージになります。
カトリックにとってイエス・キリストは絶対ですから逆らうことはありません。
カトリックのこういった習性を利用したのではないかと私は考えているのです。
前例もあるのです。
アメリカ大陸にいた先住民であるインディアンを殺しまくった時に「マニフェストデスティニー」という言葉で正当化してきた歴史があるのですから。
「市場原理にしたがって、負け組になったんだからそれはあなたの能力不足が原因であって、それは自己責任だ」
なんて普通に言ったら非難殺到なわけです。
こういった非難を防ぐために、「神の」を付けて逆らいづらくしたというのが、なんだか私は一番自然に見えます。
こんな卑劣なことをするような学問を私は学問とは認めたくありません。
そもそも経済学は自然科学ではなく人文学なのですが、「数字」や「数式」を使うので、なんだか自然科学のように見えてしまうことが非常に問題であるということです。
何も知らなければ、数字に対する盲信する人はコロッと騙されることになってしまいます。
数字は100%客観的なデータであると言われがちですが、数字は計算方法やグラフの見せ方ひとつで、「誤解」を与えることはできるので注意が必要です。
まとめ
結局のところ「市場原理」、「自由競争」という前提で戦えば必ず、「その時の強者が勝つ」ということです。
公平でも平等でもありません。
自由という言葉を利用した強者のためのシステムをさも公平であるかのような印象操作に使われた学問が「経済学」だということになります。
自由という概念は拘束、束縛に対する言葉ですが、政府=拘束、政府の否定=自由というような単純な二元論的な思考で考えられていること、その間の適切な位置にシフトするという発想が現代には必要なのかと私は考えています。