我が国は建国以来の民主主義国家です。
古事記によると「神々の総意によって」という言葉があるところから見ると、元来、日本は合議制であると考えられます。
いずれにしても戦前も選挙はありましたから、合議制であったことは間違いありませんが、戦前に選挙があったことすら我が国では教えられていない気がします。
それも問題ですが、民主主義には重大な欠陥があると私は考えていますのでこの記事ではそれを書いてみたいと思います。
直接民主主義と間接民主主義
民主主義には間接民主主義と直接民主主義があります。
間接民主主義というのは現在の日本のように、国民が選挙を通じて国会議員を選び、議会で議論して法案が決議される制度です。
対して、直接民主主義とは国民投票(直接)で総理大臣を決めるという制度です。
間接民主主義のメリットは選挙が少なくて済むとか、感情的な勢いが法案に反映されづらいこと、国民の代表者が丁寧な議論を行い妥協点を見つけバランスを取ることができることなどが挙げられます。
一方の直接民主主義のメリットは個々の意見がそのまま票に結びつくこと、国民にとってわかりやすいこと、選挙制度に左右されることがない
直接民主主義のデメリットは、二元論的な判断が投票に結びつく、選挙権を持つ人口が多ければ多いほど投票ごとに負担が大きい、国民全員で議論をすることは不可能、激しいプロパガンダ戦の構図にならざるを得ない、議論に柔軟性を欠く傾向になるために予想していなかった不利益を被る可能性がある。
間接民主主義のデメリットも色々ありますが重大なことは、
「有権者が政治家に任せきりになり政治的無関心の人間が増加する」
ことであると私は考えています。
何故、政治に無関心だといけないのか?
我が国は敗戦国であり、敗戦後アメリカから7年間の占領政策を受けています。
占領政策の中身は以前の記事で書いた通りです。
国民が政治に関心を向けないように教育した上で、間接民主主義を採用していれば、政治家、権力者は好き放題できてしまうということです。
権力者に問題があっても、少数のうるさい国民はメディアを使って黙らせることができますし、最悪の場合は逮捕される場合もあるでしょう。また政治について必死になって訴える人が白い目で見られ、社会的に孤立していきます。
国民が政治に関心を向けないことが、支配層から見れば、どれほど好都合か考えればわかると思います。
支配層の論理は基本的に自己の「権力の維持と繁栄」です。
自己の権力を覆す存在は「大衆」あるいは「他国からの侵略」と相場は決まっています。
政治家個人レベルで考えれば対立する政治家とかメディアとかも含まれるでしょうが、何よりも怖いのは政治家も企業も大衆からの猛烈な攻撃です。
メディアはスキャンダルが起これば、あるいは作られれば、利害関係を前提としてベッキー騒動やスタップ細胞騒動のときのように、集中放火で晒し者にします。
普通の人はあんな目に遭ったら立ち直れません。
国家という視点で社会や物事を考える人間を作らないようにした上で民主主義を採用し、あたかも国民には自分たちが決めていると思わせて、現在我が国の有様は日本を貶める者が賞賛されるような状態です。
政治を考えるということは未来の国家、国民のことを考えることですし、過去先人達が政治で決定したことによって現代の日本人は豊かに生きてるのですから。
少なくともそういう側面はあります。
「今だけ、金だけ、自分だけ」
という視野で全体が動いているように私には観えてしまうのです。もちろん全員ではありませんが。
民主主義制度では有権者が無関心だと機能しない
ここまでの説明でわかると思いますが、民主主義の制度下では有権者である国民の大多数が国家という視点で政治を考えることをしなければ、権力者が好き放題に政治を動かしてしまうということです。
支持している政治家に対して不満が出てきても「これは良かった」、「あの件については良い」と認知的不協和に陥り、行動を改めるということをしなくなります。
この認知的不協和という言葉を知るだけでも全く違います。
有権者が認知的不協和に陥ることや、偏りすぎた情報だけで政治を観ても、本質は掴めず逆に簡単に政治家やメディアの口車に乗せられてしまうことになります。
政治家というのは喋りのプロですから普通の人を相手にしていると考えて対峙したら素人は100%煙に巻かれてしまいます。
経験として一度、地元の政治家の事務所を訪れてみて、聞きたいことを聞いてみればよろしいかと思います。
特に選挙前と選挙後の対応の違いは実に露骨ですよ。
話は逸れましたが、有権者が無関心という意味は、「騙され続ける羊」であることを受け入れるという意思表明に他なりません。
政治はマイナンバーやマイクロチップなどで国民の監視を強化しようとしていますが、国民側はろくに権力者を監視できないという状態なのです。
うるさい国民であればまた違った形になったかもしれません。
政治は新たなフェーズに移っている
最早、右とか左とか保守や革新とかのカテゴリ分けは意味をなさなくなってきています。
政府与党もただただアメリカ追従路線ですし、野党側も森友学園云々と追求しています。
私はこれらも大事なことであるとは思いますが、野党側に与党を追求する資格などあるのかと感じますし、日本人かどうかもあやふやな人間が野党第一党の党首ですし、与党は与党で、トランプ大統領のペットみたいだしと、私は「戦後レジームからの脱却ではなく回帰ではないか」「ところで被災地はどうなっているのか」と感じる訳です。
国民そっちのけなのは確定しています。
与党も野党も特別、差があるというわけではなく、予算委員会はほとんどセレモニーでまるで茶番のようです。
政治家まかせでは政治は変わらず、国民が政治に関心を持ち、我が国の構造がどうなっているのかを知れば政治では良くならないということが理解できるはずです。
グローバリズムはEUで破綻をきたし、アメリカがそれを追い、日本が周回遅れでグローバリズムを信奉しているという残念な状態ですが、これもひとりひとりが未来の日本人や人類の幸せを考えれば違った未来が見えてきます。
最近では選挙の不正も取り沙汰されているところですし、大衆がこれまでの支配層の搾取や誘導に気付き始めていると、ブレジンスキーも言っているところからすると、やはり世界は歴史的転換期を迎えているのではないかと感じます。
事実であれば実に恐ろしいことです。