よく「経営者目線」とか「マネジメント的発想」といった言葉を使い、労働者に経営者の立場になって物事を考えることが重要であるかの如き、「教育」がなされています。
基本的に、経営者と労働者は「使用者」と「被用者」という対立軸の関係です。
企業は、「金銭(給料)を代償に労働力を得る」ということで人を雇いますし、労働者は「時間(労働力)を代償に金銭を得る」ということで所得を得るという関係です。
普段考えることはないかと思いますが、企業が従業員を必要とするのには労働力の獲得以外にも理由があります。
別に全てをアウトソーシング(外注)で賄っても回るのであれば従業員を雇用する必要はないはずです。
しかし、銀行からの融資を受ける為には全く雇用していない企業ということでは審査的に不利になる可能性があります。
銀行が企業に融資をする際には以下の基準で融資することになっています。
安全性(自己資本比率、固定長期適合率、流動比率等)
公共性(犯罪や反社会的なことに融資しないという基準)
収益性(売上高経常利益率、総資本経常利益率、キャッシュフロー等)
成長性(売上高、自己資本比率、経常利益増加率等)
また、銀行側の貸出態度DIという指標もあります。
返済能力という点では、インタレスト・カバレッジ・レシオ、債務償還年数などが審査の対象となります。
これらはいわゆる定量評価というものですが、この他に定性評価というものがあり、その項目の中には従業員についての評価も含まれたりもするのです。
少し話が込み入ってしまいますのでここまでにしておきます。
興味のある方は調べてみてください。
このように、従業員を雇用することでさらなるビジネスチャンスや融資、投資の受け入れをする機会が増えることはあるので、従業員を雇うことそれ自体がメリットになる場合があるということです。
とは言え、こんなことは経営者が考えることであり、別に従業員が考えることではありません。
極端なことを言えば、経営者は金策と仕事を持ってくることさえできれば良いと言えます。
そもそも従業員という「雇用制度」の枠で活動する立場と、会社からの「委任」という立場で活動する取締役など役員の立場が同一であるはずがありません。
更に言えば、”利益が対立する”ことも多々あるのです。
にもかかわらず、経営者目線で考えることが善であるという風潮や国策や国の行く末を語る段になると、途端に自己の立場ではなく司令塔のような立場で語りだすことが多いのはなぜなのでしょうか。
この記事では、「経営者目線で考える事が正しいという風潮の罠」と題してこの辺りを考えてみます。
企業の行う教育は企業にとって都合の良い従業員にする教育
目次
普通は研修という言葉を使いますが、悪く言えば洗脳です。
研修期間を経て、その企業の考え方や仕事のやり方、業界ルール等も学んだりします。
その研修カリキュラムを作るのはもちろん「企業側」です。
そのカリキュラムの中に、「労働基準法」や「労働者の権利」を一生懸命に叩き込む企業があるでしょうか?
申し訳程度に伝える企業もあるかもしれませんが、基本的に企業にとって都合の悪いことを教えるはずがありません。
つまり、企業が行う研修制度というものは、企業にとって都合の良い教育を従業員に施す制度、期間だということです。
デフレと規制緩和が生んだ人間の競争激化
我が国はデフレが20年以上も続いている世界でも特異な国です。
デフレというものは、物やサービスの価値よりもお金の価値が高くなる状態のことです。
我が国はバブル崩壊後の消費増税や規制緩和でデフレになりました。
デフレになると、将来不安から人はお金を使わなくなります。
お金を使わなくなるということは他の人の所得がなくなるということです。
これが全体で行われることで、企業の売上は減ります。
売上が減るから、利益も減る、利益を生めなければ企業は潰れてしまいますから、利益を出そうと、「経費を削減する」ようになります。
経費を削減することで一番の近道は「人件費のカット」です。
要は従業員をクビにしたり、給料を下げたり、人員整理をすることで利益確保を図ります。
デフレ経済という状態であれば、雇用されている立場であればどうしても自身の生活を第一に考えるため、会社に「しがみつく」ということをせざるを得なくなるのが大半です。
そのクビにならないように会社にしがみつくという態度というのは、具体的にはどのようなものなのでしょうか?
一言で言えば、「上司の言いなり」とか「会社の奴隷」、「他者の足を引っ張る」といったものとならざるを得ないのです。
上司に意見すれば人事評価にひびき、会社の奴隷にならなければリストラ候補に挙げられるかもしれないという不安、同僚や後輩の足を引っ張ることで”自分の評価を相対的に上げる”というのは私もよく見ましたし、この環境では仕方ないのかなと悲しく感じていました。
この三つの態度が「会社にしがみつく」ことの典型的な行動です。
人余りのの時代と言われるデフレ下において、供給能力を増加させる政策である「規制緩和」を行えば、競争が激化すれば従業員同士は更にこういった行動を加速させることになるのは明白です。と言うかそうなってしまったのです。
国際競争力とはなんなのか?
更に、「国際競争力」、「グローバリズム」という言葉は絶対の正義かのような信仰レベルまで達しているのが我が国の現状ですが、それを牽引したのが企業です。
デフレで国内の需要が少ないということで、「外に打って出る」ということで、中国や東南アジアの人件費の安い国に生産拠点を移し、そこで出来上がったものを日本国内に輸入するということで、みるみるうちに物価は下がり続け、賃金も下がり、失業率も上がっていきました。
しかし、「世界はグローバル」を合言葉に人件費が安ければどこの国にでも行くといった姿勢のグローバル企業は利益は法人税の安い国で税金を納めることになります。
いわゆるタックスヘイブンの利用です。
パナマ文書問題が報道されたのでご存知かもしれませんが、あれは非常に由々しき問題なのです。
この問題を追っていたジャーナリストが殺されています。
このようにグローバルに経営を展開するということは、国内に留まって運営するよりも様々なリソースを使えることや機会を利用することができるので、非常に有利な立場となります。
これらグローバル企業は多くの場合、大企業です。
「国際競争力を高める」という言葉は何度も政治の世界でもビジネスの世界でも使われたと思いますが、そもそもなぜ国際競争力を高めなければいけないのでしょうか?
国際競争力とは何か?
国際競争力を高める必要はあるのか?
なぜ国際競争力を高めなければいけないのか?
これらの問を説明する人は多くないように思います。
まして経営コンサルタントという立場の人間は企業側に付いているものですからまずしないでしょう。
これを説明しないこと、それこそが「国際競争力」、「グローバリズム」という考え方の欺瞞だということです。
国際競争力とは「労働賃金の安さ」でしかありません。
国際競争力を高める必要は、「株主目線」「企業目線」でその方が儲かるからでしかありません。
なぜ国際競争力を高めなければいけないのかと言えば、デフレ下での規制緩和とグローバリゼーションを推進したから、現状その政策が正しいというだけの話です。
日本人の労働者からしてみればなんのメリットもありません。
しかし、日本の労働者は自身の立場を悪くする、自身の権益を削がれるかもしれない政策に以下のような調子で語りがちです。
「企業の収益力を向上させるには”国際競争力”を高める必要がある。その一番の近道は”人件費の節約”になる。だとしたら、安価で優秀な人材を確保することが最優先になるのは当然だ」
などと雇用されている立場の人でもこのように言ったりするのです。
このように書いてみればいかにも正しいことを言っているように見えますが、これは「グローバリズムが善」「国際競争力が重要である」という前提が崩れれば崩壊する論理です。
正しいことは時代が変われば同じように変わっていく儚いものです。時代が変わっても変わらないものが真理です。
グローバリゼーションが真理ではないことは、「ニュー・ワールド・オーダー」という言葉の成り立ち、使用者、意味からしてある層の戦略でしかありません。
「ニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)」を都市伝説とか陰謀論と言う人がいまだに多くいるようですが、この言葉を使う人間の言論を封じ込めたい意図がはっきりわかります。
昨今の都市伝説ブームは事実を都市伝説というくくりで放映することでこの話をする人間は単にエンターテイメントの話をしているという印象にするためのものと言えます。
プロパガンダ、広告マーケティング等をある程度理解すればこのように言わざるを得なくなります。
経営者目線の従業員は自分の権利を放棄しているのと同じ
これまで説明したことの結論は
「経営者目線の労働者は自分の権利を放棄しているのと同じである」
ということです。
実際に大企業が国内だけで生産、販売したほうがその会社以外の大多数の労働者にとってメリットです。
しかし、意見としては経営者と同じ目線で喋るということは、「グローバリゼーションが自分のデメリットになることに気付いていない」か「メディアや会社に洗脳されている」か「優生主義者」のどれかです。
そもそも、雇用されている立場の人間が「自己責任」というよく切れる刀で、他者を切り捨てるのは私からしてみれば「雇用制度に守られている人間が自己責任とはこれいかに」という印象です。
おそらく「国際社会という舞台でイノベーションを実現する自分」という幻影に酔っているのか、経済誌やビジネス誌に踊らされているのでしょう。
はっきり言えば、この世界の多くの人間99.9%は負け組です。
負け組同士で争うのを観て笑っている人間が0.1%側にいることに気付けなければ再び悲劇が降り注ぐことになるんだろうと考えています。
まとめ
なにか最後の一節は予言者のような言い回しになっていますが、私からしてみれば当然の話でしかありません。
これまで人類は戦争に戦争を重ねてきたと言えるほど、戦争をしてきました。
戦争が好きなのかな?というレベルですが、ほとんどの人は嫌いなはずです。
でもこれだけ起こるというのには理由があるのです。
いつの時代も情報を支配しているのは、0.1%側の人間であるということ、0.1%側の人間はその戦争でなんの痛みも受けない、むしろ最高の娯楽ぐらいに思っている可能性があるからです。
考えるまでもない話ですが、とんでもない金持ちや国家、貴族が一丸となって世界を今よりも良くすることなど容易いはずです。
つまり、彼らの「良い世界」と私達の考える「良い世界」は「真逆」だと言えるのです。
彼らからしてみればグローバリゼーションは善です。
しかし、多くの一般大衆からしてみればグローバリゼーションは悪です。
でも日本ではイギリスのEU離脱やトランプ大統領誕生が起きてもグローバリゼーションは良いということになっている。
ヨーロッパでは反グローバリズムの議論が巻き起こっているにもかかわらず日本のメディアでは報道しない。
だとしたら、グローバリズムは「支配者層の目的」であって逆に言えばヨーゼフ・ゲッベルスが危惧した「国民国家を破壊する」活動であると言わざるを得なくなります。
ヨーゼフ・ゲッベルスが警告したこと〜プロパガンダの天才が危惧した未来〜
マスメディアは我が国に限りませんが、「関連を隠すことで問題の本質に気付かせない」という手法を取ります。
「グローバリズムとデフレ」、「グローバリズムと規制緩和」、「デフレと新古典派経済学」、「新自由主義とデフレ」など本当は全てひとつに繋がっています。
しかし、気付かせないように支配者層、マスメディアは報道するのです。
愚民と化した日本人には「気付くことができない」ということになります。