「空気」の力は権威を超越する〜日本社会と空気の支配〜

我が国に蔓延する現在の「空気」とは一体何なのでしょうか?

我が国にはこの「空気」という存在によって個人の選択はもちろん国家政策の選択ですら決定されるという現実があります。

「空気を読む」

という表現は誰もが知っているはずです。

他にも「水を差す」なんて言葉も「空気」に関する言葉でしょう。

歴史の流れを、多くの知識人は後知恵でこうすべきだった、ああすべきだったとよく言ってますが、結果が出た後でだったらどうとでも言えるし、またその時の「空気」ではそうならざるを得なかったということをあまり考えているようには見えません。

空気に逆らうことは我が国では「社会的抹殺」を意味する場合もあり、正に村八分が行われるのです。

しかし、空気というものは誰が作り、誰がその空気を蔓延させ社会に浸透させるのでしょうか?

この記事では「空気という暴力装置」を考えてみたいと思います。

空気は最強の権威である

社会を見ていると、また私生活の中でも、私達は空気というモノに完全に支配されているように感じます。

例えば仕事の会議でも、そこにはある種の空気が、誰かの一言や、誰かの存在、言葉の選択ひとつでいくらでも変わるあやふやなものが空気と言えます。

こういった会議でも本来、論理がしっかりしており根拠が明確な意見やプレゼンテーションが採用された主張が支持されるべきですが、現実にはそうはなりません。

社会問題では、例えばいわゆる国の借金問題なんかでも、ノーベル経済学賞を受賞した学者を連れてこようが、法的根拠や権威あるデータを示して、いくら「財政破綻もしなければハイパーインフレにもならないこと」を示しても、「空気」は「国の借金は大問題である」ということを社会通念としています。

これは歴代の財務省の役人が自身の出世のために、日本国民を貧困化させることで犠牲にしてきた「努力の結果」なのです。

財務省は恐い組織なんです〜日本の支配者としての財務省〜

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やっぱりうまい財務省〜プロパガンダの知恵〜

財務省の省内の中でも緊縮は善、拡大は悪というように無意識のうちに条件付され、それが逆らえない空気を作り出しているのでしょう。

官僚は出世したいと考え、緊縮をするために日々仕事をし、自分がいざ出世して後輩や部下ができた時に可愛がるのは財政拡大を唱える部下や後輩ではないはずです。

当然、自分の意見に賛同する後輩を引っ張り上げるでしょうし、後輩側も出世したいだろうしということで、それが代々受け継がれていっているのではないでしょうか。

もし財務官僚がそのような「緊縮財政は正義」といった空気の中で財政拡大を大ぴらに唱えたらどうなるのでしょうか。

想像に難くないはずです。

出世の道が断たれることはおろか村八分という仕打ちを食らうでしょう。

正しい根拠や論理など一切関係ありません。

「空気に逆らうことは絶対悪である」

このルールが空気を権威にまで押し上げたのです。

空気に逆らってでも公のために正しいことを主張するということを本来の「日本人らしさ」だと私は思っていますが、そういったことは損得勘定で考えれば損でしかありません。

我が国では敗戦以来、経済第一ですから「合理的、効率的」であることが”正しい姿勢”であると価値観が変わってしまいました。

なぜ日本は”経済第一”なのか?

この経済第一という空気も、「努力したものが報われる社会」をスローガンにした新自由主義と親和性があり、この空気が存在しているからこそ、デフレは20年以上放置され、「努力しても報われない社会」が形成されたのです。

そして、冷戦下での日本人の努力は「自惚れ」へと昇華してしまいました。

【どう思う?】『お金の若者離れ』を高須院長が一喝「甘ったれるな若者!」→ 賛否両論を巻き起こす

高須院長はどうやら若者に対する叱咤激励のつもりのようですが、ミクロのレベルの話とマクロのレベルの話とをごっちゃにしているように観えます。

お金の若者離れ」なるものは我が国の実質賃金の推移を観れば、仰るとおりと言わざるを得ません。

とは言え、個人が努力の仕方を間違えなければ必ず成功できるというのもごもっともです。

何やら炎上したそうですがこの話の前提を理解しなければ、世代間格差と若い世代の不満は解消しないでしょう。

高須院長世代の人達は、

「焼け野原から日本を作り上げてきたんだ」

といった認識を共有し、「俺たち頑張ってきたよな」的な空気をも共有するのです。

一方、若い世代は、

「頑張っても給料は増えないし酷使されるだけ」

という認識が共有されればそりゃ「自分の時間を大切にする」ことにインセンティブは働くのは致し方ないと言えます。

それが空気になれば、空気はその価値観を「常識」にしてしまうのです。

常識」と共有された価値観はどれほど優れた理論や権威のある根拠を用いて覆そうと試みても暖簾に腕押しという状況に陥ります。

そして「空気は、「権威」を超える力」となるのです。

マスメディアは空気醸成器

マスメディアは空気を作る為の「装置」と言えます。

以前以下の記事を書きました。

マスメディアは「議題」を社会に設定する機関である

ここではマスメディアの議題設定機能について触れていますが、この議題設定機能こそ、「社会の空気を醸成するはじめの一歩」なのです。

テレビを始めとするマスメディアが幅を効かせたこの100年の間で、一般大衆の真実は「マスメディアが作り上げた世界」ということになりました。

なぜなら大衆の大多数はマスメディアの報じる情報を「事実」、「真実」「真理」と捉えます。

マスメディアの与える情報を事実、真実、真理と捉えるかどうかはあくまで人間ひとりひとりの主観によるところが大きいので、要は「その人にとってはそれが真実です」といった現象が発生してしまうということになります。

マスメディアが大衆に「空気を与え、醸成し、訴える為の装置」であるならば、大衆を愚民化させる政策(3S政策等)が功を奏し、支配者層からすると大変都合の良い環境が作られます。

こういった構造があるからこそ人類の歴史上「民主主義は一度も成立しない」ということになるのです。

プロパガンダや情報操作がマスメディアにおいて行なわれている事実は”一定の勢力が大衆の中に意図した空気を作り大衆操作するために行なわれている”とも言えます。

メディアの情報操作手法を公開します

 嘘を見抜く方法~正確な情報の掴み方~

「事実」はこうして作られる~既成事実化~

 洗脳はエンターテイメントの顔を持つ

力の流れを順に追うと以下のようになります。

エスタブリッシュメント層の一定の勢力

マスメディアへの支配(人事、マスメディア構造、広告の発注、株式の取得等)

現場レベルでの忖度や自主規制、黙殺といった「心理的検閲」が行われる

媒体を使い大衆に周知

大衆は報道された情報を問題として各個人が意識に刷り込むことで、大衆に”空気”が醸成される

簡単に書きましたが概ねこのような流れです。

詳しくは他の記事をご参考にしてください。

マスメディア関連記事

したがってマスメディアは支配者層が大衆に意図した空気を醸成させるための機関ということになります。

人間はマスメディアによって既に「自由に考えること」ができなくなってしまっています。

おそらく100年前まではあえて自由に考える必要もなかったのですが、現在はそうすべきであるのに、最早そうすることができない環境になっているということです。

教育によって大衆を愚民化し3Sを奨励させる

前段で少し触れましたが、大衆を愚民化させることによって「空気に流されやすい人間」を作ることができます。

日本人を根本から改造したCIE

愚民化させることにどのようなメリットがあるかと言えば支配者層にとっては政府転覆のリスクが低減されるというメリットがあります。

国民が政治を考えなければ、また考えたところでポピュリズムにすぐに乗っかる大衆を作っておけばどのような政策もやりたい放題ということになります。

そのためには「義務教育」でそのような人間を形成、作成しなければなりません。

こうなると、我が国の義務教育システムにしっかりとした目的意識が存在することが理解できます。

「権威の信頼の失墜」は医療にも波及している〜記憶力至上社会〜

こういった義務教育と3S政策にかかる物質的で且つ多少の利便が与えられた社会を作ることで大衆は積極的、消極的に拘らず、「3Sを奨励する態度を取ることが合理的」となります。

こういった人間で構成された社会の空気はなぜ日本は”経済第一”なのか?で書いたような社会にぴったりマッチしてしまうのです。

”空気”と大衆の知能レベル、あるいは精神レベルは相関関係があるような気がしますので今後もっと深く掘り下げていきたいと思います。

空気に逆らうことは罪という社会規範

そして、一旦醸成された空気に逆らうことを戒める為に、村八分、黙殺といったことが行なわれるようになります。

空気を読まずに発言する政治家やエリートが最近マスメディアを賑わせていますが、同じことを言ってもタイミングを間違えば相当な痛手を被ることになってしまいます。

それは別にエリートに限らず、一般社会でも同じです。

空気を読まずに発言することでひんしゅくを買うのは、そもそも、そこに「暗黙の了解」が存在しているからこそです。

議論の場、会議の場で空気など読む必要は本来ないのですがここが人間社会のおもしろいところだと非常に思います。

ワセダクロニクルさんが取材された以下のシリーズに「強制不妊シリーズ」というものがあります。

そのなかで地方議会での議論の進み方が非常に嘆かわしいことと同時に、その場が非常に閉塞的であることが見て取れるのです。

正にその時代、場所の「空気」が人間を支配している格好になっている絶好の例とも言えますのでご覧になってください。空気というものは人間がふたり以上いればどこにでも存在しますが、空気というものを客観的に観るにはこのような場面を観るしかありません。

議会は茶番」と言われるひとつの理由はここにあります。

まとめ

長々と書いてきましたが、「空気」というものはこの記事で書いたことだけでは書ききれないので別の記事でも書きたいと思います。

この空気に逆らってでも公のために尽くすエリートやお金持ちというのがいなくなったなぁと最近は思います。

間違っていることを間違っていると言えることそれこそが「日本人らしさ」だと私は思っています。

かつての武士達は仕える大名が間違っていることをしていると思えば、切腹を覚悟して進言したと聞いています。

人間の命が現在よりも遥かに軽く扱われていた時代であればさもありなんというところです。

空気に逆らうことはある種「命を賭けること」でもあり「人生を賭けること」でもあるのです。

連綿と続く時代にこういう人間が少しでもいることで我が国は我が国として発展してきた部分も多分にあろうとも考えているところです。

負けると理解っていても言うべきことは言うという姿勢は、戦後、我が国が無くしつつある大事だ価値観なのでしょう。

なんとなく雑談

先日、以下の記事で国連憲章の敵国条項について書きました。

日本国民の食の安全は売国奴に叩き売られた〜憲法改正と種子法廃止〜

この記事の中で「敵国条項(53条と107条)がある状態で憲法を改正したら米中の属国になる」といった主旨のことを書いていますがこの記事の中では根拠は示しませんでしたが、

「日本は旧敵国なので、その侵略に対して、国連安保理決議なしに攻撃できる」

と中国が主張していることが基本的な根拠です。

戦後体制の超克

しかしです。

中国がロビー活動をしているしていないとに拘らずそもそも、国連に対し一番影響力のあるアメリカが国際法違反をガンガンするわけですから、中国もプロパガンダさえしっかりやれば国際法なんかどうでもいいと思っているという判断で私は根拠をあえて書きませんでした。

米国の侵略における「正当化」の観念

私はどれほど支持されている政治家も言論人も、参考程度までで、信用は一切しないと心に決めております。

とても素晴らしい方もいらっしゃることも事実ですが、一切の信用をしないという態度を取らなければ「自分の頭で考える」という活動の邪魔になってしまうのでそうせざるを得ません。

それほど政治というものは醜悪だと私は思っています。

今後日本社会は、9割の日本人の為に政治が行なわれるということはないでしょう。

どれだけ悪くならないように努力できるかということでしかありません。

どれほど絶望しても現実逃避することができてしまう世の中ですから、日本人に絶望が足らないなどといった愚劣な言説は単なる戯言でしかなかったのでしょう。

寝ている人間は、「絶望」にも気付くことはできません。

 

参考:空気の研究ー山本七平

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