反グローバリズムとか反新自由主義などと聞くと、右翼だとか、ナショナリストだとかをイメージしてしまう人も多いかと思います。
そこで、この記事では「自由な社会」「グローバリズムの行き着く先」を考えてみたいと思います。
「自由」の定義とは?
自由でなくてはならないということはどういうことでしょうか?
そもそも自由とはなんなのか?ということですがこの記事では自由という言葉の定義を、
「外部からのいかなる干渉を許さない」
とします。
さて、外部からのいかなる干渉を受けないとは、自分が法を犯さない限り何をしても良いということです。
職業選択の自由、居住の自由、言論の自由など一般的な自由という言葉のイメージもこの定義とそうかけ離れていないと思います。
法を前提とし、法を犯せば自由が制限されるというのは当たり前のこととして説明はしません。
グローバリズムは「自由」でなくてはならない
グローバリズムはヒト・モノ・カネの自由な移動を実現するという考え方、イデオロギーです。
ヒト・モノ・カネの自由な移動が実現すれば、どういう社会が生まれるのでしょうか?
人は、自由により多くの所得を得られる、賃金の高い国に移動することができます。
物やサービスはより需要のある場所に供給されます。
カネは、より投資効果の高い(金利、配当など)場所(国)に集中します。
経済学的にはこれらヒト・モノ・カネの動きを「市場の決定の結果」とします。
国境が存在せず、平時を保っていれば当然このような結果になるでしょう。
一見、正しいことのように見えますが、果たして本当に正しいのでしょうか?
問題はこの自由な、国境が無いという前提は、現実には存在しない前提で考えられていることです。
国境が無いということは、国家、政府が必要ない、無くても良いということになります。
何故か?
「自由」を達成するなら国家、政府の干渉は悪となるからです。
例えば、自由な経済活動を破壊する公共事業(財政出動)や法人税、所得税などの税金は自由な経済活動を阻害することになりますし、水、ガス、電気、道路などのインフラは市場競争に勝ったものが運営することになるので、確実に高額になっていくことでしょう。当然、一般道も有料となりますね。
自由な市場競争に勝った者は富を独占することが出来るようになります。
一方、自由な市場競争に負けた者はどうなるのでしょうか?
負けた時点(企業であれば倒産、個人であれば破産者)では素寒貧になることは避けられないでしょう。
政府の介入が一切ない社会は、自由な競争が行われた結果、必ず勝者と敗者に分かれ、また自己の生活は全て「自己責任」となります。
個人の生活で考えれば、水道は民間の株式会社が運営しているので、それを使うかお金がなければ、川から引っ張って使うしかありません。
でもそれは「誰」の川ですか?
やはりここでも川の利用料を払わなければいけません。
電気は、民間の株式会社が発電送電をしそれらの企業にお金を支払うことで電気を使えますが、お金がなければ発電機で電気を起こしますか?ロウソクを明かりとしますか?
道路は、道路を作った民間の株式会社が通行料を取ります。
ETCが一般道にも設置されることになるでしょう。
食品は安くてカロリーの高いものを買うようになるでしょう。自分が何を食べているかわからなくなります。
遺伝子組換え作物の表示義務は政府の介入なのでで自由競争の妨げになるということで、無くなります。
自給自足という人も増えることになるのではないでしょうか。
低所得者は自由な市場競争に負けた敗者なので、敗者の生活を送ることになります。
無一文になっても政府はありませんから、生活保護もありません。
これが、究極にグローバリズムを徹底した社会です。
この社会は言わば「敗者は野垂れ死んでください。」と言っているような社会で極端に見えると思いますが、実際に起こることはこれらとそれほど大差は無いはずです。
ここまででわかる通りグローバリズムは一言で言うと、
「政府の否定」
なのです。
ですが、これが先ほど定義した「自由」が目に見える社会なのです。
グローバリズムの求める「自由」は「社会的責任」を負わない
このブログを読んでおられる読者ならお解りになると思いますが、グローバリズムは必ず国も企業も個人も勝ち組と負け組に分かれます。
冒頭で書いたように、個人が自由に利益を求めてヒト・モノ・カネが移動すれば
、”ヒト・モノ・カネが移動された”地域は負け組とならざるを得ない構造になっています。
現実には「条約」や「協定」といった形で実現されます。
TPPやFTAなんかが典型です。
最近は、フォルクスワーゲンや三菱、東芝など誰もが知っている大企業の不祥事が目立っていますが、これら大企業の不祥事の背景にはグローバリズムの考え方がひとつの原因になっていると考えられます。
フォルクスワーゲンも東芝も三菱も企業ですから、利益を求めて活動をします。
それは誠に結構なことですが、不祥事を起こした原因の中で
「利益至上主義」が原因であると判断できます。
東芝に関しては会見で当期利益至上主義が従業員を圧迫したとのコメントを残していました。
フォルクスワーゲンに至っても、フォルクスワーゲンの株主構成はポルシェとニーダーザクセン州が大きな割合を占めています。
フォルクスワーゲンの自己株式とニーダーザクセン州とポルシェの持分割合で3分の1超があるので拒否権があります。
フォルクスワーゲンから見て、この二者は「身内」です。
身内に損をさせるわけにはいかないというのもよくわかります。また、機関投資家の意見も強かったのでしょう。
コストカットとクリーンディーゼル不正で利益を押し上げ、株主に配当を支払っていました。
また不祥事発生当時、フォルクスワーゲンの輸出先はユーロ圏内とチャイナでが主な輸出先となっていました。
不祥事が起きたタイミングはこれから中国経済が失速すると一部で囁かれていたタイミングでした。
そこから考えるとフォルクスワーゲンの株価は4割減という状態になりましたので、穿った見方をすれば機関投資家が不祥事のリーク予定を予め知っており、持っている株式を売却し空売りを仕掛けて、儲けた挙句、逃げたということも考えられます。
私の本業がこのような見方をさせてしまうので、あくまで推測ですし参考までにしてください。
何が言いたいかというと不祥事を起こした会社はいずれも大企業で、
世界を股にかけてビジネスをするグローバル企業だということです。
もちろん株式市場に上場しているので、海外からも資金が集まってきます。
投資家は何を求めて投資をするのでしょうか?
もちろん配当やキャピタルゲイン(利益)を求めて投資をするはずです。
投資家はある企業の株式を買い、経営陣に利益追求を要請します。立場上、強要となってしまいますが…
そうなることで経営陣は利益至上主義、もっと言えば四半期ごとに利益が上がるように無理をしなければいけない「当期利益至上主義」というスタイルになってしまうのです。
これは、資本主義だから仕方ないという話にはなりません。
パナマ文書の件では、利益を法人税の低い国外に移し、移した先の法人税を支払い経営実態のある国では税金が支払われないということです。
これだけならまだしも我が国の税法では移した先の法人税と我が国で支払うべき法人税のその差額を納めなければいけない法律となっています。
それにも関わらず、法人税を支払わないで済むということは
複雑な手段、つまりバレない手段を用いて(ダッチサンドイッチ、ダブルアイリッシュ)、当局が被疑者を特定できないようにしているということです。
私に言わせればこれは「脱税」です。
我が国の経済インフラを利用してビジネスをして利益を出して、支払う国が日本と関係ない国ということであれば、倫理的にもおかしいことです。
法に触れてなければよい(実は触れている)。利益が増えればいいと、このように考える企業が多くなったのは自身の為でもあると思いますが、株主からの圧力が相当に強いということの裏返しです。
またグローバリズムの名のもとに罪悪感を薄れさせているということも挙げられます。
つまりは、「企業は社会の公器」であることの前提が無くなることがグローバリズムの効果とも言えるのです。
企業には社会的責任CSRがあると言っても建前として機能している実態と企業側が認識する社会的責任の意味が、利益になる社会的責任と認識しているか、社会とは日本社会を指しているのではないと認識しているかのどちらかの可能性を垣間見ることができるのです。
では個人はどうなのか?
自由な社会では、個人は自己の利益を最大化するために行動します。
何故なら、個人にも強い者もいれば弱い者もいますので、弱い者は強い者につかなければ生きていけず、弱い者に目をかけている余裕などはなくなっていきます。
この時点で予測できることは、「モラルの低下」と「自分さえ良ければいい」という他者を顧みない考え方が蔓延することです。
そのような個人が、企業経営をしたら、政治家になったら、学者になったら、官僚になったらと考えたら全体の利益を考える人間はいなくなることでしょう。
自由という言葉を絶対の価値観にすることは、弱肉強食を認め、このような社会になることを知らないうちに容認してしまうことになります。
物事の全てに表と裏があるのと同じように、「自由」にも裏の側面があるのです。
漠然とした、また抽象的な言葉に騙されずに、様々な角度からも物事を考えることが今を生きている人間には必要なことだと感じています。