「自由貿易」とか「規制緩和」、「自由化」、「競争原理」などバブル崩壊以降、今日までこれらの概念に沿った政策を我が国は行ってきました。
増税や社会保障費の削減等の「緊縮財政」もバブル崩壊以降行われ続けています。
それらの政策が経済成長を促し、国民を豊かにしているのであれば何の問題もありません。
しかし、経済成長率は横ばい、実質賃金は下落、若者の貧困化、ブラック企業問題など大多数の国民はとても「豊か」とは言えない生活を送っています。
先に挙げた考え方がこのような結果をもたらしたにも拘らず、バカのひとつ覚えの如き、自由貿易、緊縮財政、規制緩和などが推進され、政策に反映されているというのはどういうことなのでしょうか?
通常、個人がある目的を達成する為に行うことというのは、試行錯誤を繰り返し、「結果から」失敗や成功を判断して、「やり方が間違っているかもしれない」とか、「環境を変えてやってみよう」とか悩みと失敗のサイクルを経て成功に近付くはずです。
しかし、現在の我が国というのは失敗しても失敗しても、失われた20年と揶揄されようとも、その失敗したやり方を貫き通す非常にストイックなことをしているのです。
実に不思議なことです。
政策を決めているのは、国会議員という国民の信認を受けた基本的には「立派な人間」とされる人達です。
その政策を現実に法律にする実務を行うのが官僚ということになっているのですが、彼らも国家公務員総合職試験という難関の試験をパスした「立派」な人間です。
そんな人達が、「考え方が間違っていた」とならず自己の失敗を認めずにいるのは何故なのか?
失敗したと思っていないのかもしれませんし、公務員の無謬を信じているのかと思いましたがそうではないようです。
その立派な人達が立法という国家の行く末を決めるという重責を背負っていながら、20年間を無に帰させるというのは凡人の私からすれば全く理解不能なことでした。
「でした」と書いているように、その原因がわかったような気がしたので「権威が考えを改められない理由」と題して考えてみたいと思います。
権威は権威のコミュニティの中で生きることしかできない
国会議員、大学教授、官僚など「権威」を持つ人達がいます。
基本的に彼らは「エリート」と称される数少ない人間です。
彼らは多くの場合、小中高大と一生懸命に学校の勉強をしその人生の中で共同体を形成します。
共同体とは、例えて言えば水槽のようなものです。その水槽(ハコ)の中には自分と似た者同士と関係を構築し「会話」、「コミュニケーション」をとるのです。
では、水槽の水を変えたり、水槽の魚を別の水槽に入れてしまうということを行うとどうなるでしょうか?
大抵、死にます。
淡水魚が海で生きられないのと同じように、人間も「生きている環境」に支配されているのです。
仮にこの権威の共同体の共有する価値観が、「出世」とか「エリートこそが社会を管理し大衆を支配する」だった場合どうなるでしょうか?
もちろん、その価値観に沿った行動をすることになるでしょう。
そもそも共同体、コミュニティというのは「思想」や「価値観」、「目的」、「倫理観」などが全てあるいは一部が一致しているからこそ、共同体として成立します。
原発反対派が右翼勢力に参加することができないのは、価値観や思想が一致する部分が少ないから、または無いからです。
権威ももちろん人間ですから、価値観などが共有されている居心地の良い環境にいたいと思うのが自然でしょう。
しかし、人生を積み重ねていくとその共同体に属していること、共有する価値観に疑問を持つタイミングがあったりします。
何しろ、人は変わっていくものですから。
その時、そのコミュニティ以外との接点で芽生えた「権威としての社会的責任」と「権威個人の利益」が対立してしまうことになった時に権威は何を根拠にどのような判断を下し、実行するのでしょうか?
権威としての社会的責任を選択していれば、これほど悪い社会になってないでしょう。
つまり、権威は「権威個人の利益」を選択するのです。
何故なら、生きていけないからです。
コミュニティに逆らうことの意味
先程も書きましたが、権威は権威の共同体の中で生きています。
この場合、「権威の社会的責任」を選択するということはその共同体の共有する価値観や目的に反目するということです。
そのような真似をする、つまり共同体内で共有される「認識」とは別の認識、あるいは「見解」を表明するということは、その共同体から追放されることを覚悟しなければいけないということなのです。
例えば、主流派経済学には主流派経済学という権威のコミュニティが存在していますが、その主流というのは「新古典派経済学」です。
その権威が正しいとしている「認識」と違う認識を論じると以下のような方の目に遭います。
山口薫氏は、「シカゴプラン」を唱えたことで同志社大学を追放されたようです。
シカゴプランそのものが人類が利用するベストな貨幣制度であるかどうかは議論が必要ですが、少なくとも”議論されるべき”ではあると思います。
植草一秀氏も追放された経済学者のひとりであると私は思っています。
この方の場合、電車に乗るという失態を犯してしまったことは非常に残念で仕方ありません。
電車に乗る人間が陥れるターゲットだった場合、痴漢をでっち上げることなど朝飯前と言えるほど簡単なことでしょう。
ご自分が権威の虎の尾を踏む活動をしているという自覚が無かったのかもしれません。
このように、「見せしめ的な人間」がいる以上、その権威の共同体に逆らうということは、学者としての”死”を意味するぐらいに彼らにとっては重大なことなのです。
その上、大衆からの批判に晒されることもあるでしょう。
メディアはこぞってこの共同体離脱者を糾弾します。
真に社会のことを考えて自国民を豊かにしようという誠実な学者からしてみれば、自国民からの批判や誤解は恐らく死ぬほど辛いことでしょう。
現実よりも共同体の認識が重要
共同体とは、学者であれば学会、政治家であれば派閥といったものです。
前段で説明したように、支配力のある既存の共同体に逆らうことは、その立場を追放される可能性があります。
すると、その共同体に属する個人はどういう行動をとるのか?
概ね九割が「共同体の認識を盲信し続ける」ことになります。
何故なら、それが個人の利益の追求という保障されている権利であるという上に、
「学問的にはこれで正しい」と言い訳まで用意されているからです。
共同体に逆らったところで、地位は脅かされるし、仕事はなくなるかもしれないし、もしかすると犯罪者にまでされるかもしれないと思ったら、誰がエリートとしての地位を剥奪されてまで持論を展開するでしょうか。
それは、個人の利益を追求する場合においては「非合理的な判断」となります。
そうだとしたら、黙っているのが大多数になるのはごく自然のことでしょう。
現実が共同体の認識する理論に反証するような事態が発生しても、「実験を間違えただけ」となり、その理論に沿った結果やデータだけを集めて理論を構築していき、強化していくのです。
そして、初めの内は自らに言い聞かせるような感覚で理論を強化していくのでしょうが、段々とそれすらも感じなくなり、その理論の強化がどれほど社会に悪影響を及ぼしていると気付いても、先程の「学問的には正しい」と共同体が言い訳を与えてくれますので、正当化できてしまうのでしょう。
これが、「御用学者」を生産するメカニズムなのかと考えているところです。
大衆は権威に弱い
更に、大衆がこういった権威に力を与えてしまっているという事実があります。
「テレビで偉い人が言っているから」とか「誰々がこう言っているんだから」、「偉い人が嘘をつくわけない」と何も考えない大衆は権威の方を盲信しているので、その権威に反対する個人がどれほど論理的に反証しても、大衆はそもそも考えないのでその真偽を「肩書」や「地位」に求めます。
すると、事実やデータなど反論できない根拠をもって反証したところで、その根拠を理解する能力がないために、いわゆる「偉い人」に付いてしまうのです。
しかし、大衆にしても権威にしてもそれまでの理論や考え方、いわゆるパラダイムがシフトする正にその時に、失敗しかしなかった理論や主張にも拘らず、従来の道からシフトすることができないのか?
一言で言えば「不安」だからでしょう。
これまでとは違う道に進むというこの先何が起こるかわからないといった不確実性は、従来の失敗しかしなかったけど、この先どうなるかわかる不安よりも遥かに強力に人間の心理に作用します。
プロスペクト理論に近いものですが、
「なんとなく予測できる不安VS希望はあるけど予測できない不安」
であれば、前者の経験済みの損を受け入れやすく、勝ってしまうということです。
こういったメカニズムがあるからこそ、それが正しい方向だとわかっていても、従来の道を選択してしまい、結果「何も変わらず、徐々に悪くなっていく」といったドツボにはまる状態になるのです。
この状態から抜け出すには、権威が勇気をもって団結し、大衆を正しい方向に煽動するしかないのですが、そのような殊勝な政治家や学者、官僚などのエリートは、我が国にはほぼ存在しません。
いたとしても潰されますし、最初はそう思って政治家になって国会議員になってもいつからか国会議員でい続けることが目標になってしまうようなので一切期待できません。
まとめ
権威が考えを改められない理由は
「共同体に逆らえない」
「共同体に逆らえば精神的な”死”が待ち受ける」
「権威個人の利益を追求することが正しい」
「大衆が後押しする」
とまとめられるかと思います。
毎年、「来年は今年よりも悪くなる」ことになりますが、このブログ記事から少しでも悪くなるスピードが遅くなることを祈っています。