最近、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という小説を読んでいます。
有名なのでご存知の方はいるかと思いますが、このSF小説の世界観はジョージ・オーウェルの世界ほど支配的な描写は少なく、人間とアンドロイドの対比から人間の本質に迫っている作品です。
ジョージ・オーウェルの1984年もこの作品もそうですが、SF作品には「人間とは?」という問を読者に投げかけているように感じます。
人間を人間たらしめる要素とはなんなのか、「心」を亡くした時、人間は人間と言えるのかと、そんな風に考えてしまいます。
心を亡くすとは、人間の尊厳をも消失した状態ですから、全ての判断基準は概ね「損得」、「利益」という価値基準からすべての行動を選択するようになることは想像に難くないところです。
一方ではこのような価値基準での選択をすることが合理的判断、生きるための選択として追い込まれた場合、人間は「生き残る為の変化」として人間性を捨てる、心を亡くす選択をせざるを得なくなります。
それを著名人の発言に、「コスパ」だとか「ウィン・ウィン」などに現れています。
その選択自体で心を亡くすというのは飛躍している議論のように思えるかもしれませんが、人間の持つ共感や感情移入、思いやりが直ちになくなるわけではないにしろ、徐々に人間性を失っていく結果になるでしょう。
というのも、何でもそうですが基本的に人間はラディカルな変化には抵抗する生き物です。
だからこそ、ショック・ドクトリンといった手段を講じる必要があるわけです。
変化の為の風穴をショック・ドクトリンでこじ開け、その後徐々にその穴を拡張していくといったものです。
派遣法なんかも当初は限定的だったものの現在では多くの職種に解禁され、今や労働者の上前をはねるただのピンハネ産業になっています。
話を戻しますが、人間の価値基準が損得感情に支配されるのであれば、人間はその時点で事実上のアンドロイドになっていると言えます。
生き残る為に心を明け渡すこと、これが現在のデジタルレーニン主義におけるワクチン摂取の建前で行われる人類管理、心を取引材料として、生きるために24時間監視を受け入れるという選択です。
せめて、その選択は追い込まれてする選択ではなく各個人が、自ら考えて自分自身で決めてほしいと思うところです。
ムーンショット目標は公表されている事実です。
2050年までにその社会を実現させるということなので、その時の人間は、人間そのものを定義し、現実も定義するようにもなるでしょう。
私達が見させられている現実の8割は、権力者の創作、シナリオであることはコロナ騒動ではっきりしましたし、彼らは911爆破テロを起こせるほどの力を持つ人達であることもまた疑いようもありません。
現実は個人の頭の中にしか存在しません。
自分自身の現実や選択、行動までも”誰かに”決められてしまうというのは、果たして人間は人間と言えるのでしょうか。
インターネットの登場で庶民の知識へのアクセスは飛躍的に増大したはずですが、そのことが知識の増大に繋がることはなく、それどころから知識の減少が発生している様は、フィルターバブルや、各個人の情報の選択が自らの世界観を構成し、却って限定された情報の檻の中で生活している現実を生み出しています。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は、「ブレードランナー」というSF映画の元ネタにもなっているようなので気になる方は見てみてください。