実に素敵な言葉です。
様々な国の人間の持つ文化、歴史、考え方などそれを同じ地で共存させようという考え方です。
多様性という言葉も「みんな違っていいじゃないか♡」的な意味合いをイメージします。
実に素晴らしくて世界に平和がもたらされる世界共通の価値観であるべきです。
グローバリズムは世界平和を約束する民主主義の結晶です。
とでも言うと思ったかという話をします。
他の記事でも書いたようにこのようななんとなく正しいという言葉は非常に危険なニオイがするので注意が必要です。
なんとなく正しいというイメージを持つ言葉は、裏を返せば
「表向き否定しづらい」ということでもあります。
この記事ではこの「多文化共生」、「多様性」の言葉の意味をめくってみたいと思います。
多文化共生、多様性の定義
多文化共生の定義
「国籍や民族などの 異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、 地域社会の構成員として共に生きていくこと」
と総務省は定義しています。
多様性の定義
「複数の個性によって構成されること」
と定義します。
実際、これだけ見ると別に悪いことは無さそうですが、ところが全く語られていない点があると私は考えています。
多文化共生、多様性の影響とは?
まず「多文化共生」から考えていきます。
先ほどの総務省の定義からすれば非常に前向きな印象です。
しかし、よく考えて見ると以下のような疑問があります。
「文化も宗教も民族も違う人間が共に生きていける社会を作るとするならば、ひとつの国の中で”誰にとって”共に生きていけると思う社会を作ることになるのか?」
ということです。
文化も宗教も違うということは、もちろん「常識」も違います。
例えば、一言「悪いことはしてはいけません」と言われた場合に何が悪いことなのか、どこからが悪いことなのか正確に共有することは、多文化共生という”思想”では可能なのか?ということです。
日本人の「これくらいだったら良いだろう」と中国人の「これくらいだったら良いだろう」にギャップがあることは容易に想像出来ると思います。
夜の9時以降は静かに話して近隣に迷惑を掛けないようにするという常識があった場合でも、彼らはそれが理解できるのでしょうか?
といったことが起こらないとも言い切れないのです。
そういった常識は、地域で暗黙のうちに醸成された文化であるとも言えます。
その文化を理解してもらおうとすれば強制だの差別だの始まる可能性すらあります。
このようなトラブルを避けるためにはどうすれば良いのか?
おそらく「法制化」するしかないでしょう。
刑法第~条 21時を経過し、明日6時を経過するまで、~デシベル以上の物音を出した者は、10万円以下の罰金に処する。
前項の場合によらず、5人以上で集結し、もしくは集会、会合、その他の結社を発足し、談笑並びに相談あるいは談合等を行った者は三月以上一年以下の禁錮に処する。
各項の未遂は、罰する。
のような法律を作らなければいけなくなるでしょう。
移民国家であるシンガポールは、ガム禁止ですし、飼っても良いペットの数も決まっています。
つまり、自由が無いのです。
日本国民からすれば、
「外から来た奴のためになんでこっちが我慢しなくちゃいけないんだ」
となるのは火を見るより明らかです。
少なくともこのように思っても不思議ではありません。思っても言わないことが問題ですが…
ですが、これが「多文化共生」なんですよと言われればそうなのです。
一言で言えば「どちらかが我慢する」ということです。
先ほどの例で言えば、その外国人に無理矢理その国、地域のルールを守らせるか、
日本国民が”外国人に合わせた”ルールに従うしかありません。
どっちが良いですかとなれば後者になる日本国民は多いでしょう。
外国人に対して毅然と日本のルールを守れと言える日本人がどれほどいるでしょうか。
現政権は、移民受け入れ大国と言えるほどの移民を受け入れています。
一応、移民の定義をしておきますが、国連の定義では「出生地以外の国に一年以上居住する者」としているようです。
世界最短で永住権を取得できるようにすると我が国のトップは言っているので、日本国民はいずれ
「日本らしさ」もわからなくなり、「日本人であること」すらぼやけて来るのだろうと思います。
その時、先ほどのような事態に陥れば確実に日本国民が蔑ろにされ、結果日本語は”現地語”となり、英語を話せないとろくに仕事も出来なくなるような社会になっていくのでしょう。
このように「多文化共生」という言葉を考えるとこのような可能性があるということになります。
こういったことを言うと、そんな「ひどいことにはならない」、「発想がネガティブだ」と反論されることがよくありますが、これこそお花畑的な平和ボケだと言うのです。
イギリスのブレグジットやドイツの状態を見れば、そりゃ心配にもなります。
ひどいことにならないと反論されても根拠なんて出された試しがありません。
というか出せるわけないのです。
グローバリズムは平和が前提ですから、その平和がいつまでも維持されると、盲目的に信奉しているので、根拠など出せないのです。
発想がネガティブでも何でも良いです。
それで路頭に迷う日本人が増えたり、治安が悪くなったり日本国民の自由が制限される可能性があるなら、ネガティブにならない方がイカれてると私なんかは思います。
このような反論も平和ボケしているからこそ出てくるのです。
多様性
多様性にしても近いことが言えます。
民主主義国家で多様性が重んじられることは悪いことではありませんが、多様性それ自体は”国民”に対してのみ認められるべきことです。
なぜなら、外国人に参政権はありません。
ここ日本で多様性を認めるということは、政治で”日本的なもの以外の価値観など”を認めるということです。
だとしたら、参政権を持たない外国人が我が国の政治に影響力を発揮するということになるのです。
実際そうなっています。
有名な話ですが何故、中国からの留学生は日本政府から学費や生活費まで貰えているのに、日本人の学生には借金させるのか。
何故、外国人が生活保護受給できるのか?
そんなことで起こったことが京都認知症母殺害事件です。
更にこれを自己責任と切り捨てるのが、グローバリズムであり、新自由主義であり、新古典派経済学です。
多様性を実現して亡国に至るという現実は既に目の前に来ているのだろうと私は感じています。
日本国内の地域だけでも習慣や文化、味など特徴があり、その地域ごとに違いはあります。
ですが、日本語は通じます。
この言語というものが、民族の統一性やナショナリズム、仲間意識、連帯意識といった感覚を構成しています。
お気付きかと思いますが、この多様性という言葉も個人主義を前提に考えられています。
個人の多様性は大事なことです。
しかし、実際に奨められている多様性というものは、日本国民の権利の侵害の可能性があるのです。
仮にビジネスの観点で多様性を考えるならば、結局は組織運営ということになるので、
「共通のビジョン」や「共通の目的」が必要となります。
それを国家に応用すれば良いとよく言われますが、ことはそう単純にいきません。
日本という社会で様々な国の文化や宗教、習慣などが入ってきて、共通のビジョンを設定出来るでしょうか?
私はできないと思います。
宗教が違うこと。
これが決定的となります。
我が国以外は基本的に一神教です。
神様が違うということは、正しいことも違うのです。
常に正しいことはない〜自分は正しいと思いたいのが人間である〜
彼らは小さいコミュニティでは、キリストよろしく隣人を愛せますが、コミュニティが拡大すればそうはいきません。
日本人だって同じです。
国家観が無い日本人が国家の中心にいるわけですし、国家観そのものを我が国は教育しません。
仮に宗教の黄金律が社会で本当に実現できればきっと素晴らしい社会になるでしょうが、それを阻止する者は必ずいるのです。
黄金律というのは、多くの宗教や道徳や哲学などで共通する行いのことです。
「自分が他人にしてもらいたいことを他人にしてあげなさい」
というものです。
現実には、今はまだこれをやっても応えてくれる人というのはわずかでしょうし、「便利なやつだ」、「良いやつだ」、ぐらいにしか思われないのが関の山でしょう。
実際にやってみると非常に辛いと思ったことが率直な感想です。自分が潰れない程度に継続するようにしていますが、本当に難しいものです。
誰がこのような言葉を作るのか?
実際に誰が作ったとは言えませんが、基本的にこのような中身がよくわからないけど、なんとなく良いイメージを持つ言葉はメディアから、垂れ流されます。
ここで書いた影響が実現した場合に都合が良いのは恐らくグローバリストということになるでしょう。
この多文化共生、多様性の意味や危険性をメディアは説明しないですし、政府もしてくれません。
ということは、知られたくない、知る必要は無い、考えるなということなんだと思ったほうが良いのだと私は考えています。
私のような一個人が考え付くことを、エリート層がわからないはずはありません。
でも説明しないというのはやはり、何か裏があるのではないでしょうか。
まとめ
私も、世界の人類全てが平和で、搾取もなく、幸福になることが最善だと思っています。
外国人の友人達は私個人にとって素晴らしい人達であるとも思っています。
この記事自体が彼らにとって都合の悪いことを書いているのだとは理解していますが、私は日本人だから社会を考える上では、日本国民にとって最善でなければならないので、仕方ありません。ソーリー
何事もバランスです。
過ぎたるは及ばざるが如しです。
きれいな言葉を盲目的に信じれば、誰かの都合の良いように、こちらはこんなはずじゃなかったとなるようになってしまっては、身も蓋もありません。
この流れが主流であることは理解していますが、ひとりひとりが考える事、それが民主主義のあるべき姿ですので、ひとりでも多く「考える」という行為をしていかなければならないのです。