「自由・平等・博愛」にある欺瞞

誰も否定しない価値観であるこの「自由・平等・博愛」でありますが、そもそも何故”誰も否定しないのか”という疑問が私にはあります。

実は、否定しないのではなく”否定できないのではないか”とか”否定することで何か社会的な不利益があるのではないか”という疑問もあります。

いずれにせよ、この「自由・平等・博愛」という価値観は欺瞞であり、互いの価値観が競合し、三つ同時に達成することは、絶対にありえません。

この記事では、何故欺瞞であるのか、どうして同時に達成できないのか、何故この標語が独り歩きしているか考えてみたいと思います。

自由は競争、平等は不自由である

”自由”とか”平等”といった言葉は実に綺麗な言葉で、人類の普遍的価値とも言える価値観と見做されています。

自由の対義語は束縛、統制、専制と言えるでしょう。

平等の対義語は不平等、差別といったことになるでしょうか。

しかし、私は「自由」の対義語は平等だと考えています。

自由の対義語なのに自由と平等は同じ「価値観」の上に乗せられて考えられているのです。

自由に人間が生活していれば必ず、強い者と弱い者が現れます。それは自由に競争した結果としてそうなるのです。

この時点で弱者は自由を感じなくなるかもしれません。

この段階でそこまで感じていなくても、息苦しく感じるようになっているかもしれません。

ということは、「平等」はこの時点で達成されないということになります。

強い者も人間、弱い者も人間であるのに、強い者は弱い者を支配し、弱い者は強い者に服従するということであれば自由を享受できるのは、「強い者のみ」であるということになります。

また、弱い者の自由は、強い者が”与えた”限定的な一定の枠の中での自由のみを享受することになります。

つまり、弱い者は強い者に与えられた自由の中でのみ機能するわずかな平等を得られるだけなのです。

ここに「自由・平等・博愛」の欺瞞があります。

フランス革命以来、この言葉を誰も否定しなかったわけでありますが、誰もが感じていることであり、あえて誰も言わないことがたった今説明したことなのです。

だとしたら、フランス革命で議会の標語となったこのスローガン、価値観を掲げ、作った人達は何を意図していたのでしょうか。

以下の絵はフランス人権宣言の絵ですが、有名な結社のシンボルマークが描かれているところを見ると、この結社がかなりの部分で影響力を発揮したものだと考えられますし、シンボリズムは結社では非常に重要な要素となるので、もはや断定すべきです。

またご存知かと思いますが近代文明では弱者ほど、「弱者であることを武器にする」ことがあります。

我が国日本では同和地区出身者が自らの権利を訴え始まった同和問題、水平社など、初めは良い運動だったかもしれませんが段々と差別を武器に利権を貪り喰うようになったのです。

 

 

組織は必ず腐るという言葉をよく体現してくれてますね。

日本の裏社会を構成しているのは、元公安の菅沼光弘氏のよれば、「ヤクザ、同和、在日」のようです。

 

話を戻しますが、平等が達成されることで「不自由」が生まれ、自由が達成されることで「支配」が生まれ、それを獲得する「競争」が生まれるのです。

自由は結果的に支配を生み出すので、平等は監視された空間の中で機能せざるを得なくなります。

強者が弱者に”過ぎた”自由を認めると、弱者が強者の足元をすくう可能性が出てきます。

だからこそ、自由という概念は支配者が大衆に対し、「自分を自由と思い込ませる為に」作った価値観なのです。

よくよく考えてみれば、真の意味で自由な人間などどれほどいるのでしょうか?

多くの人が、日々の生活のために「お金」を稼ぎます。

お金を稼がなければ生きていけないと思っています。

お金の為に自分の時間と労力を提供せざるを得ない立場です。

この時点で、「お金の奴隷」なのです。

全く自由ではありません。

よく、お金についての自己啓発セミナーなんかでは、「経済的自由を手に入れる」などと謳われますが、その通り多くの人は経済的自由ではないのです。

経済的に自由ではないということは、経済的不自由であって、それも「生きること」に直結する事由であるということは、それは最早金銭の奴隷だと言わざるを得ません。

そんなことみんなわかっている、わかっているけど誰も言っていないだけだ」という反論があるかと思いますが、わかっていても、会社勤めをし所得をひとつに絞るということはどういうことなのでしょうか。

誰もが幸せになるように学校教育が行なわれているのであれば、なぜ「投資」を教えないのでしょうか?

それは、大衆が経済的自由を獲得することが、支配者にとって「不利益だから」に他なりません。

考えてみればわかるかと思いますが、「ただ生きていくだけ」なら別にお金は必要ではありません。

自給自足の生活もできないことはありませんし、自分が作った野菜と人が捕えた動物との交換だってできます。

そんなことをしたくないという意識は当然あると思いますが、その意識は「為政者に意図された意識である」可能性があるということに気付いた上で日々を過ごしていただきたいのです。

自分の生活の現状を自分が”知っている”のと”知らない”のとでは為政者は全く別の対応をします。

自分の生活の現状を正しく理解している一般人は、「何かおかしい」と感じ始めます。

何故、一向に生活が良くならないんだ?」とか「生活が良くならないのに税金だけ上がるのは何故なんだ?」とか始まるのです。

するとその不満は、暴動の種を育てることになります。

為政者もそれではまずいということで、対抗策を講じます。

例えば、お金を配ったり、減税したり、補助をしたりといったことです。

しかし、一般大衆が自分の生活の状況を正しく理解していない状態であれば為政者は、「不満も出ていないようだし大丈夫か」と思うことでしょう。

その上、「大衆には政治に興味を持てないように教育しているし、団結しないように個人主義の価値観を叩き込んでるから暴動のリスクは低いはずだ」となれば一般大衆にとって利益になるような政治は行なわれないと考えることが自然となります。

実際、現状の我が国は正にそういった状態ではないでしょうか。

一部で不満が起こりそうな場合には、この「自由・平等・博愛」の価値観を押し付け「その為にはこうするしかない!」、「自分さえ良ければ良いのか?」「みんな苦しいんだ!」「痛みに耐えろ!」などと言っておけば現在の日本人ごとき簡単に治められます。

と言うより、我が国はこの20年この手法で治められてきました。

このように、「自由・平等」という価値観は為政者が大衆を収める為の欺瞞であり、「」ということになります。

博愛を達成しようとすると迫害、人種差別が起こる

博愛を達成しようとすれば以下のことが起こります。

人種差別

全体主義的な価値観の共有

ポリティカルコレクトネス

ひとつひとつ観ていきます。

人種差別

博愛とは「全ての人を等しく愛すること」とされますが、こんなことが出来るやつは人間ではありません。

しかし、この”博愛主義”というイデオロギーを持っている人間は人間の良いところ悪いところ、各人の個別的な欠点をも包含した上で愛するということをします。

ということは、博愛主義というのは「自分の嫌だと思う心を殺すイデオロギーである」と言えます。

嫌だとも思わなければそれはそれは立派なものですが、相手は普通にダメ人間である可能性もあるのでいいとこ利用されて終了でしょう。

問題は、博愛主義者は何やら宇宙的な観点から人を観るので愛せない人間(普通の人)を軽蔑したり、”これは愛すべき物である”といった説法じみたことを始めたり、人が嫌いなものを相手の事情を汲まずに悪と断じてしまうのです。

良い例が、いわゆる捕鯨問題ですが、あれは白人の一人の少年が始めた運動でしたがいつの間にか自然保護団体の活動になっていきました。

 

 

 

ついにシーシェパードという海賊まで出てきたのですが、これらは博愛を語った差別主義者であって目的は「お金」です。

環境保護団体は基本的に個人や組織の寄付によって運営されています。

NPOですが、実際は大儲けするためだけに作られる最高の器としての側面があるのです。

基本的に寄付をする人や組織は、富裕層であることが多いということになります。

しかし、富裕層も人間ですから自分の意に沿わない運動にお金を出すなんてことはしないでしょう。

例えば原発反対運動やガン利権撲滅運動は富裕層にとって不利益になる可能性が高いですが、捕鯨を問題にし、可愛いクジラを食べる野蛮なイエロー・モンキーの食文化は悪であるという印象を富裕層に与えれば正しいことをしている差別主義者の出来上がりとなるわけです。

自国にその食文化が無いからと言って他国の食文化を否定して野蛮だと決めつける上に、それが環境保護団体という衣を着て実際はお金目的の博愛主義者ということであれば、それは人種差別をカネにする極悪人と言えるでしょう。

全体主義的な価値観の共有

これは非常にわかり易いです。

例えば世論が可愛いと認識されている物を可愛くないと言えない空気が醸成されることです。

おかしいと思っても、博愛という大義名分を笠に着た人間は、例えたケースの場合に可愛くないと言った人を「異端視」するでしょう。

それは、今の世でもあるのではないでしょうか?

アベノミクスが株価を押し上げた!安倍総理は日本経済の救世主だ!」と言っているコミュニティの中で、「単に円安誘導しただけだろ。賃金上がって国民の生活は楽になったのか?消費増税で一般国民は苦しんでいるじゃないか」と言って数字でも出そうものなら総スカンを食らうでしょう。

博愛主義は異を認めない空気を作ってしまうのです。

そんなことない、異を認めた上での博愛主義者はちゃんといるといった反論もあるでしょうが、それは最早、博愛主義者ではなく、「人格者」です。

先程も書いたように博愛主義というのはイデオロギーなので中庸を取らない姿勢だということは付け加えておきたいと思います。

ポリティカルコレクトネス

以上二つと関連しますが、「この言葉を使ってはいけない」と言葉を抹殺することで、その言葉を使う者を排していくことで全体主義的な空気と潜在的な差別意識を作ることができます。

これはメディアがよく使っている手法でもあります。

「放送禁止用語」という言葉で苦情が来たからということにしてますが本当に苦情が来たかどうかなどわかりません。

放送禁止用語ーWikipediaー

放送禁止用語集

放送禁止用語一覧

昭和40年代ぐらいのテレビドラマを観てみると、当時のドラマで使われる俳優のセリフは今では考えられないような自由な表現の数々を観ることができます。

メディアの言葉狩りで抹殺された日本語たちは、全体主義、差別、管理を誘導してきたのではないでしょうか。

まとめ

自由・平等・博愛の欺瞞ということで書いてきましたが、私はこういった美しいだけの言葉には細心の注意を払うことにしています。

こういった言葉には一見しただけではわからない目的が込められていることが多いからです。

詐欺でもそうですが詐欺師が汚い玄関、汚い言葉で相手を警戒させますか?

否定できない価値観が込められている言葉を使う人間は要注意です。

何かあなたから引き出そうとしている可能性が高いので注意してください。

遅れてしまいましたが明けましておめでとうございます。

本年も知識と実践と真実と~知行合一~を宜しくお願い致します。

大晦日は家族と過ごし、元日はご挨拶回り、二日に一般参賀にお伺いし、帰りに靖国神社でお参りしてきました。

去年は今年よりも良い年だとならないように祈るばかりです。

今後とも宜しくお願い致します。

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