「権威の信頼の失墜」は医療にも波及している〜記憶力至上社会〜

「権威の信頼の失墜」は医療にも波及している〜記憶力至上社会〜

死亡原因3位は「過剰医療」

こういったニュースがありました。

詳しくはリンクをご覧になっていただければと思いますが、一番重要なことは、こうした過剰医療の背景に「ビジネスとしての医療」、「論文の捏造」、「医療ミスの隠蔽」があるとのことです。

ご存知の通り医者という立場の人間はエリートです。

類まれな知能、才能、資金力などをもった人間だけがなれる職業です。

だからこそ、尊敬もされるし「お医者さんの先生」と言ってきたのですが、そのお医者さんに対する信頼を担保していたものが崩壊してきているということです。

我が国では最近、財務省のスーパーエリートが「公文書改ざん」という大罪を組織的に犯しました。

こんなことは小学生でも分かるほどの「やってはいけないこと」です。

財務省の高級官僚は、採用時、「学歴を聞かれない」と言われます。

学歴を聞かれないのではなく、ほぼ100%東大法学部だからです。

「君はどこのゼミの出身?」というように全国模試で上位の常連が財務省に入ってくるものだから名前も互いに知っているとのこと。

共通するのは医者というエリートも財務官僚というエリートも、受験戦争を勝ち抜いた「暗記のスペシャリスト」であるという点です。

記憶力で病気を治すのか、記憶力で国家の中枢組織を運営するのかと問われれば違うとなるでしょうが、記憶力でエリートになれるこの受験システムは早晩崩壊することになるでしょう。

マークシート式の答案用紙で正解を探すという作業は、選択肢以外の思考をさせないようにするには非常に効果的です。

そもそも、「正解」というものはひとつではないはずなのにこれが正解だとする受験システムは洗脳の仕上がり状況を確認するための制度という見方もできるということです。

現在の学校制度について以下のような見解も存在しています。

以下日教組も黙認…日本の学校は今も「徴兵訓練」をやっている!から引用

ーーーーーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーーーー

事実、日本の学校教育には「軍事教練」の名残が、いたるところにある。

 その代表的が「ランドセル」であろう。ランドセルは西洋式軍用背嚢から派生した。軍隊に入ったときのために背嚢を担ぐ訓練を6歳からやっている、というわけだ。同じく中学になって学生服(詰め襟)が制服になったのも「軍服に慣れる」ためなのだ。

 学校では、1クラス3、40名。それを5名前後の班に分けるが、これも軍隊の小隊と分隊からきている。遠足や修学旅行などの校外活動では、これを「中隊」規模となる100名前後に分ける。学校の活動単位は、基本的にすべて軍隊の区分けといっていい。

 朝礼は司令官の訓示の訓練。気をつけ、前ならえ、休めは軍隊の待機行動の基本。ホームルームの起立、一同礼、着席も隊長への挨拶。生徒による掃除や給仕は集団行動の意識付け。今はさすがに減っているが、教師による生徒への体罰も上官の命令に対する絶対服従を身体に叩き込むためで、こちらも軍事教練の名残なのだ。

そもそも日本の学校は「兵舎」なのをご存じだろうか。職員室は上官室、教室は兵隊の宿舎兼待機所。運動場や体育館は訓練場所といったように学校はそのまま兵舎として活用できる、というか、兵舎をそのまま学校にしたというほうが正しいだろう。

 夏休みになれば、小学生たちは朝のラジオ体操をする。このラジオ体操も「兵式体操」が元になっている。兵式体操とは、1885(明治18)年、文部大臣だった森有礼が「貧弱な日本人の体格を強化」することを目的に発案した。江戸時代まで日本人は、一部の武士を除き、肉体の強化に関心はなかった。そこで欧米人に負けない肉体を得るために兵式体操や柔道などの格技を学校教育に取り入れた。スポーツのことを「体育」(身体を育てる)と称するのは、そのためなのである。

 実際、体育祭は、隠されてきた軍事教練ぶりがいかんなく発揮される行事であろう。行進、組体操、障害物競走などは、本当の軍隊でも行うカリキュラムであり、騎馬戦、棒倒し、応援合戦などは、軍隊のレクリエーショ競技といっていい。

6・3・3の12年、日本人は銃こそ扱わないが、徹底的に「軍事訓練」の基礎を叩き込まれている。なにより軍隊は前線で戦う兵隊ばかりが必要ではない。軍の部隊を支える「軍属」、一般業務を担当する人材のほうがはるかに重要なのだ。その意味で、男女問わず健康な日本人ならば、銃などの専門知識と軍規を教えれば、すぐにでも軍属として使える。外国人が日本の学校風景を見て、異様に思うのも当然であろう。

 憲法で国民に教育を受ける「権利」があるといいつつ、それがなぜ国民の「義務」なのか、疑問に思ったことはないだろうか。

 それは、義務教育が「国民皆兵」の制度だからである。──経済評論家の日下公人氏は、自著『教育の正体 国家戦略としての教育改革とは?』(KKベストセラーズ)で、そう喝破している。明治新政府が義務教育を行ったのは、巷間、語られてきたような最先端の西洋文明を受け入れるためではなく、「富国強兵」のための国民皆兵に不可欠だったから。日下氏はそう指摘しているのだ。

幕藩体制から中央集権国家となった明治政府は、徴兵した国民皆兵へと移行した。たとえば九州と東北出身者が同じ部隊に配属すれば方言でコミュニケーションできない可能性がでてくる。読み書き計算などの基礎学力、軍事行動に必要な運動能力、軍としての規律ある集団行動といった、一定の基礎が揃わなければ近代軍として運用ができない。全国から一般国民を徴兵するとなれば、兵の均質化を「国家」が担う必要が出てくる。そのために義務教育制度が始まったというわけだ。

 標準語を教え、最低限の読み書きなどの基礎学力、体育(格技)による運動能力の向上、集団行動の徹底を尋常小学校から高等小学校(現在の中学2年生)までに教え込む。まずは国民すべてを兵士として教育し、そのなかで別な分野に才能があれば他の分野の高等学校や専門学校に行くというのが、明治以降の日本の教育制度の実態だったのだ。

 この義務教育による国民皆兵制度は、なにも日本の専売特許ではない。

 最初に発案したのは、かのナポレオンなのである。騎士階層から兵権を奪い、国民軍で巨大な版図を築いたナポレオンは、「国家による国民の教育」が軍の強化につながると考えて実践。それを「啓蒙君主」として名高いプロイセンのフリードリヒ大王が取り入れ、欧米列強で普及した。日本は、明治維新後、これらの制度をそのまま取り入れたにすぎない。戦前の日本が戦争に突き進んだのも、高い基礎学力と体力、忍耐強く連帯意識も高く従順という「日本兵」が、1億人の人口からほぼ無尽蔵に生産され続けたためであろう。

日下氏の前著によれば、第二次世界大戦以降、欧米諸国では「義務教育による国民皆兵制度」を否定、どんな教育をするのかは国家ではなく親(保護者)が決めるべきと「教育権」を国家から奪い返した。そんな欧米人にすれば先進国で唯一、そして「敗戦国」である日本が「国家による教育権」を保持し、「義務教育による国民皆兵制度」を持続させている姿は、異様としか思えないだろう。

 集団的自衛権を容認したいま現在にいたっても、国家による教育権の問題を指摘するメディアはない。戦後、平和教育を自称してきた日教組といえば相も変わらず、有能な「軍属」を育て続けている。終戦からもうすぐ70年、この機会に「教育権」についても考えてみてはどうだろうか。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーーーーーー

2020年からセンター試験は廃止されますがどう変わっていくでしょうか。

高校生新聞

 

 

現在の学校制度には様々な意見や議論、問題があるかと思いますが、権威の信頼が失墜した今、実際に「祖国を守ろう」という気持ちになれる人はどれほどいるのでしょうか?

なんでこんなクズどものために、わざわざ戦争に行かなきゃいけないんだ?となるのが一般的のように思えます。

恐らくこの権威の信頼の失墜から、モラルハザードが発生していくことでしょう。

更に、恐ろしいのは暴力的な無秩序が生まれてしまうことです。

そういったことが起これば警察力という暴力装置を国家は使わざるを得ません。

そうして暴徒が鎮圧されるという経過を辿った社会は、「超監視社会」になるのです。

実際にどうなるかはわかりませんが、現在の我が国が外圧云々の前に勝手に滅びようとしている事実は指摘しておきたいと思います。

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