「選挙」
民主主義の根幹であるこの選挙制度を採用している国で、かつ間接民主主義である我が国が、なぜ国家の行く末を決める国会議員の選出を国民が行っているのに、全く良い方向に国が向かわないのは何故なんでしょうか?
大多数の国民が完全に間違っているから、良い方向に向かわないのか?
私はそんなことはないと思っています。
日本国民の求めているものは、「平和に安全に豊かに」これさえ実現できていればそれほど文句も出ないはずです。
そんなことわかりきっているのに、できないのには理由があります。
そんなわけでこの記事では「選挙で世の中が変わらない理由」を考えてみたいと思います。
大衆の選挙に対する認識
目次
大衆の選挙に対する認識は「世の中を変える」とか少なくとも「政府をコントロールしている」という認識があると思います。
バブル崩壊以降、我が国が”良くなったこと”はどのくらいあるでしょうか?もちろん大衆にとってです。
先程挙げた、「平和に安全に豊かに」という概念は、大衆の意識の中に、「自由である」という前提が条件となります。
自分が奴隷であると認識している日本人は恐らく相当少ないはずです。
それもそのはずで、我が国は戦後、アメリカっぽい「自由」を最大の価値観として受け入れてきました。
その上、安全保障はもちろん経済までも他国への依存と他国の不幸に対する火事場ドロ棒的な(朝鮮戦争の特需)経済発展を達成しましたが、それをある層は「日本人の誇り」と言って憚りません。
我が国は安全保障は他国任せを貫き、経済も他国の貿易条件や戦争特需に依存してきた過去を持ち、しかしそれを「焼け野原からここまで作り上げたんだ」と自分達の力で達成したと思い込み、さらに自己愛的な愛国心を振り回して、事実から目を逸らし、自らを「自由」と「誇り」で”縛って”きたのです。
バブル崩壊までは需要はあるし、賃金も上がるしで希望を持って生きてこられたはずですから政治など気にする必要もなかったのでしょう。
第一、WGIP等の洗脳工作を施されていたはずですし気にすることもなかったのかもしれません。
しかし、いざ環境が悪くなってくると政治のことを考えざるを得なくなりますが、それまで自分の生活を豊かにすることのみを考えてきた日本人が大多数という状況の中で、何ができるのでしょうか?
選挙の度に「あなたの一票の大切さ」が説かれます。
しかし、これはプロパガンダです。
プロパガンダでなく、本当にあなたの一票が大切な神聖な選挙なのであれば、なぜマスメディアは海外で行われた不正選挙の事実や、我が国で行われている不正選挙裁判について報道しないのでしょうか?
選挙は民主主義の根幹であるはずです。
その根幹が揺らぐということは民主主義の危機です。
民主主義が大好きなマスメディアがどうしてそれを報道しないのか?
報道しない理由があるのです。
未だに大衆に信じられている神話が「民主主義」と「選挙で変わる社会」なのです。
選挙とは大衆のガス抜きである
選挙の実態とは、「大衆のガス抜き」でしかありません。
マスメディアは当選する予定の”いくつかの候補”をテレビ等で執拗に流し続けます。
大衆は自分で自由に選んでると思い込みますが、実際は予め決められた候補のみを選ぶようにメディアに誘導されているのです。
【都知事選】”主要3候補”以外の報道時間は3% 非”主要”候補者が共同記者会見
その中で、選んだ候補が落ちた当選したと騒ぎ嫌いな候補が落ちれば溜飲を下げるということをします。
”民主主義で選んだ候補者が状況を良く出来なかったんだから、それは選んだ国民が悪い”
という論理は飽きるほど聞いてきましたが、そもそも選んでいなかったというバカバカしい話になっている可能性もあるのです。
大多数の国民がデフレ脱却を20年求めてきてどうしてデフレ脱却ができないのでしょうか?
なぜ、豊かになりたいと思う国民が投票しているはずなのに株主の配当ばかりが上がり、実質賃金は全く上がらないのでしょうか?
なぜ、大多数の日本国民はグローバリズムが善だと思い込まされているのでしょうか?
これらの問に正直に答えないのが、政治家、官僚、大企業、一言で言えば「エリート」「エスタブリッシュメント」というものです。
仮にそれが弊害が存在する可能性がある場合に、それを選挙というシステムで改善できないのであれば選挙とは何の意味があるのでしょうか?
ガス抜きにもならなくなった後は、「政治に対する絶望」、「無関心」でしょう。
選挙前と選挙後の政治家の変わり様
選挙前と選挙後の政治家の変わり様と言ったらそれはそれは、劇団四季も舌を巻くレベルです。
選挙前の陳情は真摯に聴いているフリはしてくれますが、選挙後はもう自分の顔すら覚えていません。
当然名前も覚えていません。
これは私の実体験です。
覚えてもらうためにはお金をあげたり、バカにしたり、面倒人間だと思われないと駄目です。
それでも特に何も変わりません。
そもそも政治家というものは、「国民の望むことをしてはいけない」のです。
どういうことでしょうか?
選挙で選出された国民の代表者は、憲法上「公務員」となります。
更に、国家公務員法の総則一条にはこうあります。
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この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当たり、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導されるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする。
2 この法律は、もつぱら日本国憲法第七十三条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものである。
3 何人も、故意に、この法律又はこの法律に基づく命令に違反し、又は違反を企て若しくは共謀してはならない。又、何人も、故意に、この法律又はこの法律に基づく命令の施行に関し、虚偽行為をなし、若しくはなそうと企て、又はその施行を妨げてはならない。
4 この法律のある規定が、効力を失い、又はその適用が無効とされても、この法律の他の規定又は他の関係における適用は、その影響を受けることがない。
5 この法律の規定が、従前の法律又はこれに基づく法令と矛盾し又はてい触する場合には、この法律の規定が、優先する。
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信じられますか?
「職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。」
ルールを作れる立場にある人間、組織が自己の利益を「法律で守れるよう」にしているということです。
”職員の福祉及び利益を保護する”ということは憲法上、国家公務員である国会議員は、この国家公務員法を遵守することを求められることになるので、国家公務員法の定める「職員」の福祉、利益を保護する義務があるということです。
反対に、国民の利益を保護するというのは漠然としており、憲法上公務員は「全体の奉仕者」とされているのみです。
このように国会議員は国民の利益になるような政策をしてはいけないのです。
国民の利益を保護するということは、公務員の利益を奪うということに繋がると考えますのでそんなことは官僚は認めません。
何なら認めるのか?
官僚が認めるのは官僚の利益になる政策です。
官僚の利益になる政策とは、官僚が「出世できる」政策です。
官僚が出世を求めるのは不思議と万国共通のようです。
もちろん官僚にとって利益になるその政策が、大企業にとって利益になる場合も含まれます。
例えば緊縮財政などは典型です。
大企業は官僚と組んで利益を図ります。その為には政治家に献金をすることが必要となります。
政治家は金がなければやっていけません。
大多数の国民ひとりひとりの資金力などたかが知れているわけですから、政治家としては大企業とつるんでいた方が、得ですし効率的という判断になるでしょう。
このように政治は、お金で買われているのです。
このことからも選挙が欺瞞であることがわかります。
と同時に日本国憲法も欺瞞で溢れかえっています。
日本の民主主義は機能していない
政治はお金で買われています。
とは言え、日本に限った話ではありません。
例えば、アメリカは既に政治献金が無制限に行なわれます。
スーパーパックというものです。
それは、特定候補の応援はできませんが特定候補を貶めることはできます。
他にはインドでも最近起こっています。
左派政党であるコングレス党が選挙に勝利しましたが、その結果で起こったのは「株価の下落」でした。
投資家が政権が変わったことで投資を引き上げたのです。
グローバルに投資している投資家からしてみれば、大衆の賃金を上げる政策や減税、保護貿易的な施策を行うことは不利益となります。
そこで投資家が行うことは、海外に資本を「逃がす」ことです。
それをやられると政治家としては税金を取ることができないので投資家の要求に応えることにならざるを得ません。
税金が取れない政策を行うということは、先程も説明しましたが国会議員からしてみれば憲法違反ということになります。
日本でもありましたが、関税を上げるなら海外に拠点を移すことができる企業にとってグローバリズムというのは「企業が国を選ぶことができる状況」であるということです。
実際、消費税が上がると同時に法人税は下がるというという連動がこれまでずっと見られたので、国会議員が企業の言いなりであることは間違いありません。
このように民主主義というのは、グローバリズムが進めば進むほどお金を持っている企業や人が選挙の”向こう側で”暗躍できるということになるので、全くもって機能していないということになるのです。
民主主義というのは欺瞞である
私はそもそも民主主義それ自体がが欺瞞に見えています。
これまで観てきたように、政治家というものは、誰に選ばれても、また誰が選ばれても、大衆の望む政策などできません。
戦後は大衆にとって良い政策だったじゃないかという反論もあるかと思いますが、戦後間もない頃のことは、共産革命が日本で起きることをアメリカが警戒したために日本にとって寛容な政策を取ることがアメリカとしては国益だったというそれだけです。
大衆が困っている時に機能しないものが政治、選挙、民主主義であるなら、民主主義という制度は一体何の役に立っているのでしょうか?
私の知る限り、デフレを20年続けた国は我が国だけです。
それで暴動が発生しないのも我が国だけでしょう。
大震災が起こっても、増税の議論から始まり、その後全く関係ない法案がショック・ドクトリンよろしくガンガン可決される我が国はもう、民主主義なんてことも語れないほど腐りきっている可能性があるのです。
民主主義は「大衆が政府をコントロールしている」という幻想を作り出し、時にガス抜き、時にエンターテイメント、時に憎悪の煽動といった具合に大衆をコントロールしているに過ぎません。
つまり、バカな大衆を騙すために作られた統治システム、制度であると”言える”のです。
諮問委員会とは民主主義を否定するエリート独裁主義、企業主義
かつての産業競争力会議や現在の未来投資会議などという諮問委員会は、アメリカでは回転ドアと呼ばれる民主主義をすっ飛ばした、エリート独裁主義を実現するためのシステムです。
パソナグループ取締役会長の竹中平蔵氏が諮問委員会で行ったことは、常に人材派遣会社にとって有利な「提言」です。
覇権国家ならぬ派遣国家を作ろうとしているのです。
この男が既得権益を批判しながら、安全地帯で既得権益のぬるま湯に浸かる空前絶後の売国奴ではありますが、このことを気付かせてくれる非常にわかりやすい人であることは、大衆に対する機会を与えてくれているとも言えるかもしれません。
まとめ
この記事ではとにかく大衆批判のような形になってしまっていますが、私は民主主義という国民主権を前提とした価値観が我が国では機能していないということを認めることから、我が国の明日を迎えられるような気がしているのです。
進歩というのは誤りや間違いを認めることです。
そこには、「素直さや謙虚さ」が必要になります。
よくビジネスでも素直さと謙虚さは重要と言われますが、コンサルタントとして言わせてもらえば、「経営者にとって都合が良いのが素直で謙虚である人間」という話なだけです。
意外と、素直でもなく謙虚でもない人間が大成しますから笑
選挙では我が国は変わりません。
変わらない理由は説明した通りです。
人はとかく自分ではなく「他人」を変えようとしてしまいがちです。
しかし、他人は「自分が変わらなければ」変わりません。
自分が変わることで絶望の隙間に希望を見出すことができるのだと私は信じています。