テレビにいつも躍り出る専門家という人達、実は全く専門家でもない人が専門家という顔をして、予め決まった台本を読み、社会を混乱と恐怖に陥れています。
テレビを始めとするマスメディアの資本力を背景に、また総務省のアンテナほぼ無料で使用している事実は、マスメディアが国家の統治ツールであることを如実に表しており、その資本と影響力に群がる「野心家」が「個人主義」を免罪符に自らの力を誇示するために利用するという構図が観えてきます。
その野心家は、自身の言説が社会にどのような影響を与えるかなど知ったことではなく、自身の価値観に包含される欲望を満たすことのみに傾倒し、それをあたかも「社会のためである」という印象を大衆にもたせながら、「自分自身のための社会構築」の一部として機能しています。
自分自身のための社会とは、今日では新自由主義的グローバリズムの極まった社会、それを超監視社会SDGs、新WTO、グレーターイスラエルが現実化した、「大衆家畜社会=NWO」という名で呼ばれています。
平たく言えば、勝ち組のための社会です。
これらを実現させるに当たり、資本主義システムを下部構造とするあらゆる社会制度は、民主主義という着ぐるみを纏って「資本、お金」を中心に構築されてきました。
その資本の供給における貨幣発行システムは一部のエリートによって管理され、スイスの王族が通貨の使用権と管理権を所有しています。
この王族からしてみればかの有名なロスチャイルド家といえども奴隷、使いっぱしりということになります。
資本主義と政治家
民主主義という着ぐるみを纏った末期的資本主義(長期的社会主義、共産主義)の内側では、投票によって為政者が決定されるという演出が施され、有権者である大衆の希望の設定とガス抜きを目的に行われています。
グローバリズムという侵略行為はこれに拍車をかけ、まして日本における米軍基地や日米合同委員会、地検特捜部、CSISなどのシンクタンクなどの存在が、明確に日本が属国であること、民主主義が機能していないことを写し出しています。
この構造の中で、マスメディアを通して彼らの情報が拡散されていき、大衆の目に耳に脳に届けられます。
それが、小泉純一郎であり、橋下徹であり、安倍晋三であり、小池百合子であり、山本太郎であるということです。
与党も野党も到達点は同じであり、誰がどのように一般大衆を支配するかを争っているだけであって、そのためには911事件もでっち上げるし、311も利用するし、ウイルス騒ぎもでっち上げるのです。
悲しいかな大衆は支配されたがる生き物であって、徹底された依存体質になっています。
義務教育で「正解」に依存し、マスメディアで「情報」に依存し、その過程を経て作り上げられた習慣に依存します。
一般人と議論をしても議論にならないというよくあるパターンにはこういった根深い問題があります。
「コロナで亡くなった遺族に対して同じこと言えるの」とか「文句があるなら政治家になれば」、「なんで私の意見に賛同してくれないの」的なセリフというのは典型的な傾向でしょう。
大衆は「正解がないこと」に耐えられず、思考することに抵抗を感じているのです。
だからマスメディアの見せる「雇われた英雄」に、何度も何度も騙されるということになります。
希望ですら「誰かが与えてくれる」と無意識に思っています。
日本の選挙システムの供託金制度は候補者の乱立を防ぐためという名目で設置されている制度ですが、なんのことはありません。
これこそ民主主義システムの欺瞞の一丁目です。
民主主義は国民主権ということでありますから、有権者に主権があるということです。
しかし、多くの有権者は自ら立候補できない立て付けになっています。
好景気でもこの金額は厳しく、まして20年以上続くこのデフレーション、スタグフレーションが発生しているであろう現状で、資本家や企業の支援なしで立候補できる人間がどれほどいるのでしょうか。
いたとしてもマスメディアの工作で日の目を見ることのない候補者は立候補したことすら気付かれないまま、供託金のみ没収されることになります。
さらに、大衆の分断工作も行われているわけですから、一般候補が当選することなどありえないのです。
実弾(金)で票を取りまとめるという組織的犯罪、脅迫による取りまとめ、自動開票システムのセッティングやバックドアの存在などキリがありませんが、元々、選挙というものはこういうものです。
徳川の時代も「目明かし」といって博徒や犯罪者を情報提供やその他の使い方で秩序を安定させていたわけですから、現在に行われていないなどと言えるはずもないのです。
「金のあるところに暴力あり」ですから選挙に金がかかる時点で暴力団のビジネスになり、逆に一般人を寄せ付けない仕掛けにもなっているということになります。
今更ですが、政治家とヤクザの関係など今に始まったことではありません。
そして、経団連の政党評価表はこの欺瞞システムの核心と言えます。
いくら経団連を批判しても政党評価表については批判されませんし、公職選挙法について批判する政治家はいないのです。
そんなことだから、「無症状でも感染者」、「ウイルスを通過するマスクの強制」、「何を検出しているか不明なPCR検査」、このようなデタラメが通用するわけでして、この狂った社会が「正常」と見做される現代日本はカオスの様相を呈しています。
「多数決社会」と言えば適当でしょうか。
1年後は全員「感染者」かもしれませんね。
思考ができないのは言葉を殺されているからです。言葉が思考を形成します。
これまで言葉が奪われ続けてきました。
真に取り戻すのは「言葉」です。