人間は生まれてから家族、学校、友達、会社、メディアなどから影響を受け、誰もがその環境によって思考を形成します。
例えば、何かの意見が分かれるようなことがあったときに、それまでの人生の中で学んだことや得たことなどから総合的に思考して主張をします。
もちろん相手に合わせるというのも「主張」です。
義務教育でも基本的には同じ方向性の教育をします。
企業でも「ビジョナリーカンパニー」という言葉や「コーポレート・ガバナンス」という言葉があるように、一定の「方向付け」や「条件付け」が行われます。
また、マルチ商法などにハマッてしまい借金まみれになり挙句詐欺事件を起こすような人もいます。
では何故、このような方向付けをしなくてはならないのか?
何故、人間は方向付けをされるのか?
それは一体どのような方法でされるのか?
ビジネスにおいて、私生活においてまた人生において洗脳を仕掛けてくる人は必ずいます。
それを見破るためでも良いし、子供に対してこうなって欲しいという教育のためでもいいし、悪用さえしなければいいと思います。
今回はこういったことを何回かに分けて記事にしたいと思います。
方向付け(洗脳)をする意味
国家の場合
国家でも企業でも宗教でも必要なことは組織をまとめること、つまり統治をする必要があります。
国家の場合、国民が一定レベルの知識や精神によるまとまりがなければ、国民一人一人が「個」として社会に存在しているという考えとなり、国家というコミュニティを意識しなくなります。
これがいわゆる「個人主義」というものです。
国民の大多数が公を考えず、個のみを主張する場合には、国家運営は成り立たないでしょう。
例えば軍事安全保障などは一番わかり易いものです。
通常の場合、先進国は自国の軍隊を持っています。
自国の軍隊を持つ目的は、基本的に他国の侵略を防ぐために準備されますが、この軍隊の一人一人が個を主張していたら、自国の防衛など出来るはず無いことは想像に難しくないと思います。
国家を守るとか家族を他国の侵略から守るいう「個」以外の「公」の意識がなければ、自分の命を掛けなければならない軍隊に入ろうとはならないはずです。
中にはお金のために兵隊になる人やISISの傭兵となるような人も当然います。
何が言いたいかというと、集団の意識がバラバラであると国家運営が成り立たないということです。
20世紀を代表する歴史学者のアーノルド・トインビーは民族の定義は以下の三つを共有するといいました。
また、これを共有しない民族は例外なく100年以内に滅びているとも言っています。
歴史観
死生観
自然観
歴史観とはその名の通り、その民族(国)の歴史(認識)を共有することです。
我が国の場合、敗戦国という立場から近現代史の解釈で国論を二分するような歴史観が国民の間に醸成されています。
憲法九条などその典型と言えます。
これは歴史観が国民によってバラバラであることの証拠でもあります。
だいぶ良くなりましたが、10年前とか20年前はいわゆる従軍慰安婦問題やいわゆる南京事件について異を唱えることはタブーと言ってもいいくらいの状況でした。
つまり民族、国民が一致団結をするには共有された物語が必要となるのです。
次に死生観ですが我が国は神道、仏教、儒教が融合した神仏習合が行われた非常に珍しい国です。
死生観とは死を通した生の見方ですが、要は仏教では輪廻があり神道では黄泉の国へ行き、儒教では招魂再生があります。
要は死んだ後続きがあると考えるか無いと考えるかとすればわかりやすいかもしれません。
人間として生まれたら人間として正しいことをしなくてはいけないとか、道徳や倫理に鑑みて行動するとかそういったことです。
逆に人生一度だけと考えた場合、生きている間は自己の利益のみを追求することが善となるでしょう。
死後、無となると考えれば、生きている間は自己の繁栄、長寿、利己主義を徹底的に行わなければ、生きていることの意味を見出せません。
死んだ後は無なんだからと、生きているうちに好きなことしなくちゃとか、人生一度きりなんだからやりたいようにしなくちゃと、つまり物質的なモノの見方にならざるを得ません。
このような死生観の国民が大多数になれば国内は勝ち組と負け組に分かれ、勝った者が強い、正義となる弱肉強食の世界となっていきます。
次に自然観ですが、日本に場合、山が怒ってる、海が怒ってる、地震がくれば大地が怒ったとか、何か大自然が意思を持っているかのようなイメージを持っている人も多いかと思います。
「祟り」とか「罰が当たる」なんていう言葉もあるくらいですから、日本は自然を人間よりも上位に置いている自然観でると言えます。
これら三つの観念がバラバラになればそれは最早民族とは言えず、100年以内に滅びると言ったのがトインビーなのです。
逆に言えば国内をまとめ、統治し、コントロールし易い国民にするには、これらの観念を徹底的に教育する必要があります。
それを行う手段が「方向付け(洗脳)」なのです。
つまり、方向付けを行う意味とは支配者が被支配者をコントロールするための手段であると言えるのです。
企業の場合
企業の方向付けの場合では、企業ビジョンを設定する必要があります。組織を統括するための根本的な部分です。
企業理念とか経営理念とか言われているあの綺麗事の羅列がそうです。
ところが単に綺麗事と断じることができないのが経営理念なのです。
私が関わった企業の買収案件で、買い手にとってうまくいく買収とうまくいかない買収とでは明らかな要因、差があります。
例えば、A社がB社を買収して新しい事業を始めようとする時、うまくいく買収というのは
「B社を買収することがA社の企業理念に沿っている」
ことです。
逆にうまくいかない買収はただ利益になりそうだから、儲かりそうだからといったタイプの買収です。
不思議とうまくいかないんです。
でも本心で言えばある意味当然かも知れないとも思います。
儲かることだけに集中して投資や投機をして儲かるのであれば誰も失敗しませんから。
企業の買収案件は弁護士や会計士も必要になりますし、デューデリジェンスや企業価値算定の為の調査など面倒なことが実に多いです。
大きな金額が動くので慎重にもなるし秘密裏に進められます。
企業という組織を統治、管理するためにも企業理念というのは役に立ちます。
企業理念とはそもそもその企業の社会的意義を文章化したものです。
単なる利益集団ではなく、社会の公器としての側面を持った企業であるという言わばその企業の
「存在意義宣言」です。
これを従業員に浸透させることで、その企業の根本理念を理解するので、ひとりひとりがそれを踏まえた行動をとり、やがてその活動が会社に利益を生むようになるのです。
企業の教育ではマインドセットと共通の目標を設定し内部で競争させることが一般的に多く行われています。
所詮ビジネスの本質はヒト・モノ・カネ・情報などの資源を分配し利益を産む活動です。
その為の教育(洗脳)を施すことが企業の利益に繋がるのです。
したがって方向付けとはそれを施す側の利益のためにすることなのです。
次回は方向付けの具体的なやり方を書いてみたいと思います。