森友学園に関わる問題ばかりマスメディアが取り上げている中、こんな記事がありました。
野田聖子総務相 「放送法4条を撤廃した場合、事実に基づかない報道が増加する可能性」
といったニュースです。
このブログでは日頃からマスメディア批判をしておりましたが、事実上、マスメディアという体質、環境、元々の存在意義等を鑑みると、そもそも「政治的中立性」とか「客観的事実に基づく」といった報道というものは土台不可能なことであるともお伝えしてきた通りです。
特にこの「政治的中立性」を考えるにあたっては放送法4条の撤廃云々について考えなければいけません。
放送法
国民の立場からこの報道規制の緩和をどのように見るべきか考えてみたいと思います。
政治的中立性をテレビに求めることがナンセンス
目次
放送法四条にはこうあります。
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
とあります。
一号から四号までひとつづつ考えてみたいと思います。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
についてよくよく考えてみると、グローバル化が進んだ我が国で公序良俗とは一体なんのことを言っているのでしょうか?
公序良俗に反しないというのは、ある種国民に共有された倫理や通義、道徳、常識というある程度一致した物差しが必要になります。
しかし、グローバル化が進めば輸入された考え方や思想”も”正しいよねといった風潮になりがちです。
そうなれば、それまで我が国に存在した考え方や倫理や道徳などの常識の物差しは霞んでいき、何が正しい行いであるかということがわからなくなってしまいます。
このことから思想、宗教の自由という憲法上保障されている権利は、「国民国家を破壊する概念」であると言うこともできるのです。
また、国家というコミュニティでの常識がわからなくなった民族に”公序良俗”を理解することは不可能です。
何故なら、倫理や道徳などの常識の規準が各個人バラバラであれば公序良俗のレベルなどわからないからです。
したがって公序良俗に反しないことというのは既に破綻した規定と言うことができます。
二 政治的に公平であること。
ということですが、政治的公平の定義はいわゆる「放送の不偏不党」のことではありますが、番組制作するのも人間ですから当然作り手の価値観、記者の思想や煩悩、放送時間の設定、各メディアの経済的事情や背景など様々な要素が絡み合って放送に至ることを考えれば、「政治的公平」、「不偏不党」など達成できるわけがありません。
誰かにとって公平でも、誰かにとっては不公平かもしれないと必ずなるので、結局はどのように放送しても不公平だとか、偏向報道だとか言われてしまいます。
これは私の持論ですがマスメディアに限らずメディアというものは偏っていなければメディアとしては機能しません。
機関紙などがそうですが、その偏りをメディアがオープンにして、選択は視聴者に任せるというようにしたほうがまだマシで、公平公正を謳いながら偏ってしまう現在のような状況の方が問題です。
当ブログもひとつのメディアです。
私の主観も大いに反映されていることは否定しませんし、グローバリストからしてみれば当ブログは極右という言い方も出来ることでしょう。
反対意見を持つ人間からは「偏ってる」と、正確には「合わない」だけなのですが偏ってると言えば何か自分は公平で中立的な視点を持つ人間と思うことができるので、偏ってると言いたがる傾向にあるのです。
そもそも、自分の考えや思想を100%事細かに表現し尽くすことなど相当に困難です。
というか無理です。
なので、偏ることは必至でありメディアである以上必要なことなので不偏不党、公平な放送はそもそもできませんので、表現の自由の確保の観点からも、メディアが立場をオープンにした上で偏る方が合理的と言えます。
したがって、「政治的公平」とはマスメディアが立場をオープンにした上で様々なチャネルを用意しておくこととなりますので、これまでような政治的公平の考え方は破綻していると言えます。
なので視聴者がマスメディア以外のメディア(本やインターネット等)を駆使して情報を収集すれば良いということになります。
とは言え、国民が愚民化していると全く意味はなく恐らくこれまでと変わらないこと、更にひどくなることになるでしょう。
マスメディアはブチギレの様子ですが、国民をバカ化し続ける為の装置であることは明らかですし、本質的な存在意義ですらもしかしたらないのかもしれません。
現政権にとって都合の良い規制緩和ではあるものの、マスメディアがそれを非難する立場には全くありません。
マスメディアはこれまで叩いてきた他者の既得権益を奪うことを煽り、いざ自己の既得権益が奪われる段になって騒いでいるだけのことなのです。
ネットにも規制は入っていますし、今回の法改正は喜ばしいことではありませんし、現政権に味方しているようで癪ではありますが、規制緩和には反対しきれません。
三 報道は事実をまげないですること。
事実を曲げないで報道することは不可能です。
マスメディアは「議題」を社会に設定する機関であるにも書きましたが以下の現実がこれを許してくれません。
1 報道においては、ステレオタイプの情景描写で済ませておけば気楽で無難であるという損得勘定が働くこと
2 物事のありのままを観るというスキルは非常に高度であり、それに見合う人材が少ないという人材確保上の問題
3 物の見方だったり、考え方なり、事実を正確に伝えるには、新聞であれば多くの紙面を割かなければならず、テレビであれば多くの時間(尺)を用意しなければならないが、マスメディアにそんな余裕はないという経営上の要請があること
どうしても編集過程で制作者の主観が入ってしまうと考えればの、そもそも事実をありのままに伝えることはできないのです。
そして、マスメディアの報道は、常に「宣伝」に成り下がるのです。
現在は、YouTubeやブログなど個人がメディアを持てる時代です。
誰もが情報発信ができるのでわざわざマスメディアにこだわる必要もありませんし、「権威の信頼」は今回の財務省の公文書改ざん問題で地に落ちました。
別に財務省の問題だけではありません。
この20年デフレを継続させられるエリートが我が国のトップだということは、言いたくありませんが世界標準でも下のレベルだということなのです。
なにせ、国民の暴動を起こさせずにデフレを20年継続させられるなんてのは神業レベルの所業ですから。
竹中平蔵然り、小泉純一郎然り、その他諸々の売国奴たちが我が国を叩き売ってきたのです。
話が逸れましたが、事実をありのままに伝えることは個人でも難しいことです。
噂話にも尾びれが付くと言った諺があるように、「事実」をどのように受け取るかは受け手次第でどうにでも変わってしまいます。
したがって、事実を曲げないで報道することはそもそもできないことなのです。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
「できるだけ」ですから、できなかったときもできるだけやったと言えるので、逃げ道を残したこの言葉になんの意味もありません。
今まで改正されなかったのが不思議なくらいイカれた条文だと思われます。
今回の佐川元国税庁長官の証人喚問でも「当時の」とか「認識」といった言葉で逃げ道を用意していました。
こういった曖昧な言葉を使う時点でなんの意味も信頼性もないのです。
放送法四条を観てみましたが、どれも現代では最早、現実的ではないことはお解りいただけたかと思います。
情報は自分から取りにいかなければ操作されるだけ
マスメディアの実態が明るみになっており、更にこれまで信頼されていた権威そのものの信頼が凋落していく昨今では、一体何を信じれば良いのかさっぱり分からないという事態になるでしょう。
情報が多すぎてなのか、自分に自信がないのか、混乱しているのかわかりませんが以前に書いた下の記事のアクセスが多いことを考えると、相当我が国は壊れていると実感せざるを得ません。
情報というものは何もしなくても勝手に入ってくるものですが、すべての情報を処理することはできません。
必ず各人が取捨選択をしなければいけませんし、無意識に行っていることでしょう。
しかし、その無意識の取捨選択は、自己の潜在意識に依存してしまうのです。
もっと単純に表現すれば、
「人間は、普段から意識していて、意識していることにすら気付かない状態の中で受け取る情報を重要とみなす」
のです。
例えば、自分の大事な仕事に関わりのある情報は、新聞のように様々な記事が掲載されている情報媒体でもピンポイントで抜き出すことができるという経験があるかと思います。
意識がその情報をピックするとプログラムしているからこそ、継続の中で無意識にできるようになるのです。
これらの記事で書いたように注意していなければすぐに感情を煽られメディアの意図する方向に誘導されてしまいます。
マスメディアの意図が自分に影響すると考えると、マスメディアの情報を得てそれを材料になにかの判断をするということは非常にハイリスクな行いなのです。
何故なら、マスメディアは発信する情報に対して責任を持ちません。
適当に謝罪風の演出を行うだけです。
それでまかり通る社会も問題ですがそれで良しとするマスメディアの運営側はこの程度の意識しかないので、こんな連中の情報を聞くべきではないのです。
結局はマスメディアの問題ではなく自分の問題である
これまで書いてきたようにマスメディアというものは自己の利益を最優先に報道します。
マスメディアを信じるのであれば仕方ありませんが、それであればその人の世界観は常にメディアが創り上げる世界に依存し、自分という存在もメディアの作った世界でのみ存在し、機能しないつまらない人間と化してしまうことでしょう。
実際今回の法改正は政権にとって非常に都合の良い改正ですし、「自由な放送」は制限される方向に向かい(放送免許の問題)、「表現の自由」も同じ理由で、更に「政府の監視」は強まるというジョージ・オーウェルの「1984年」の世界にまた一歩近づくことになります。
かと言って、改正しなくてもマスメディアの体たらくはこれまで散々見せつけられて来たわけですから、もうどうにもなりません。
しかし、本やインターネット上の各個人のオルタナティブメディアには嘘や不正確な事実は存在するものの真実も存在します。
各個人が能動的に情報を得なければならない時代が顕在化するということ考えたほうが良いのかもしれません。
まとめ
今回の法改正は例のごとく規制改革推進会議の「新規参入を促す目的」とされていますが、最初は斬新でイケイケな新規参入したメディアもスポンサーの顔色をうかがうようなメディアになっていき結局は現在と同じかもっとひどくなります。
本来のマスメディアの役割というものは「権力の監視」だったはずでしたが、現在は「国民の敵」と言える状況ですし、”真実はおろか事実ですらろくに放送しない”と言われる存在です。
今回の森友事件でやっぱりマスメディアはどうしようもないと思ったところです。
野党もそうですが、「証人喚問に佐川元長官を呼んで真実が解明されるのか?」と多くの人が思ったはずですし、一番のキーパーソンである酒井康生弁護士を呼ばなければ解明には繋がらないはずです。
しかしそれをマスメディアは言わないということであれば、この事件は既に「落とし所が決まっている」ということです。
なのでこの佐川氏の証人喚問は茶番です。
共産党の小池氏が見せ場を作ってましたが、質問する連中は、「自分が目立って仕事してますアピール」でしかないのです。
昨日、最初から最後まで証人喚問を拝見し、私の心は「絶望の上塗り」をされていると感じたものです。
絶望もここまで上塗りされれば輝くのではないかと思っています。