大衆が敵を認識する時、必ずメディアが活躍する

なぜ人類はいがみ合うのか?

なぜ人類は仲良くなれないのか?

常に、国家に敵がいるのはなぜなのか?

最近ふと考えたのですが、進歩は科学技術のみで精神面がほとんど進歩しない人類はこの先どうなってしまうのだろうと考えています。

その一部に、いつも「誰かには誰かしらの敵がいる」ということに気づきました。

個人で言えば、上司や取引先、ライバル企業などがそれに当たります。

子どもであれば、いつも嫌なことを言ってくるあいつとか、あの先生とかになることでしょう。

私にも敵がいます。私の敵は当ブログを読んでいる方はすぐにわかるかと思いますので説明しませんが、誰もが敵、あるいは敵のような存在がいるのです。

当たり前と言えば当たり前なんですが、当たり前のことを改めて考えるというのは、このブログの大きなテーマのひとつなので、考えてみようと思いました。

この記事では、「敵が存在する理由」を考えてみたいと思います。

敵の正体

人類の歴史の中では、個人間はもちろん国家間でも常に敵が

存在してきました。

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なぜ、人は敵が必要なのでしょうか?

私はこう考えています。

「敵はいるのではなく、敵を作り出している」

本質的は敵など存在していません。

大東亜戦争でもそうでしたが、欧米圏が日本を気に食わなかったという、「有色人種のくせに」といった感情があったのでしょう。というかありました。

実際、当時は白人至上主義でしたし、日本の大東亜共栄圏という構想は、欧米圏にとっては脅威となっていました。

米国はあれほど大きな領土を持ちながら当時から海洋国家と自負している国であり、東アジアの脅威となる海洋国家は、我が国日本でした。

大東亜戦争当時には壮絶な日本に対するイジメが繰り広げられます。

蒋介石のプロパガンダもそうですし、米国、イギリスでもいかに日本が野蛮な国家であるかといったジャパンディスカウントが行われたのです。

ちょうど、現在の中東が当時の日本のような構図です。

テレビだけを見ていれば、中東はとんでもない地域とイメージするはずです。

リビアの件も、イラクの件も大東亜戦争当時の日本のような報道のされかたでありました。

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私は中東のテロリストとされている人達がどういった経緯でその集団に参加しているのかを調べてみました。

様々な理由がありますが基本的には「反欧米」のようです

なぜ、反欧米、反米になったのかという理由は、あまりにもひどい、筆舌に尽くし難いことを米国から受けたということが一部であるようです。

具体的には、男同士で性行為をさせられたりとか、そもそも私達が一般の報道とは全く違い、米国の都合による弾圧でしかないと彼らに判断されていることも、米国に対する憎悪が醸成されているようです。

一説には、中東のテロリストにはCIAの資金が入っているとも言われていますが、正直わかりません。

不謹慎かもしれませんが、仮にこれが事実だとしたら彼らの気持ちは理解できます。

私だって妻や子どもが目の前で殺されたりでもすれば理由はどうあれ復讐を誓うでしょう。

それが、「石油が欲しかっただけ」とか「世界支配の為に中央銀行を作りたかったから」だとしたら尚更許せない気持ちにはなると思います。

そんな目に遭った人達が、欧米に復讐を誓って団結したとするならある意味では自然なことです。

この場合、米国が中東をある目的から、野蛮だとか独裁だとかテロだとかそういった認識を西側諸国の大衆に流布し、彼らを人類の敵だと判断させ、武力行使を正当化したということになります。

重要なポイントは、国家あるいは国家に影響力を持つ人間が、

「敵を作り出す」

ということです。

実態を知れば、敵ではなかった、むしろ敵は他にいたことを知ることになります。

それに大衆が気付く時はいつも、”事後的”になるのです。

メディアは必ずプロパガンダを施す際に、大衆の感情に訴えかける”演出”をします。

実際にはAーBーCであった事実を、CーAーBーXというように嘘も含め、大衆にどう思わせたいかで編集されているだけなのです。

”プロパガンダカット”

とでも言えばわかりやすいでしょうか。

プロパガンダカットで大衆の感情に訴えかけ、「なんてひどい連中だ」と思わせます。

予め正義と道徳をインプットさせていることで大衆がどのようなことで怒り出すのかを知った上で編集、カットするのです。

実際に大衆が怒り出したら、「正義の戦い」と銘打って軍隊を派遣します。

オチが、「大量破壊兵器はなかった」といったような事態にになったり、「実は中央銀行を作りたい」とか、「石油が欲しかった」などとなって大衆は「はぁ?」となるか、その頃には何に怒ったかすら忘れている状況になるのです。

メディアの情報操作手法を公開します

大衆の忘れっぽさは大いに利用されていると私は感じます。

実際忘れるんだから「何したってどうせすぐ忘れるだろう」といい加減なことをやりだし、後々証拠や根拠が表沙汰になり、ヤバいとなれば、「陰謀論」とレッテル貼りしておけば良いと思っているのだろうと最近はそんなふうに思ってきました。

エリート層がそんなことをする割には仕事が雑だと感じますし、嘘をつくならバレないようにするとも考えていないのだと思うのです。

大体、「大量破壊兵器がある」と決めつけてイラクを民主化すると200年ちょっとの政治体制を米国の理屈で押し付けるなんてのは、人種差別、傲慢も甚だしいですし、大量破壊兵器があるとするのも中東に対するアメリカ政府の陰謀論と言えるはずです。

大衆の見る「敵の正体」とはある目的から設定された「偶像」でしかないのです。

個人間の問題で言えば、敵だと自分が認識しているだけで、見方を変えたり、その敵の行動を理解して考えてみれば、自分が勝手に敵視していたなんてこともままあることです。

ほとんど無いですが、私が誰かを敵と判断した場合は、基本的に誘導するように心がけます。

仲良くなれるように誘導してみるとか、互いに敵視しながらも協力関係にしてみるとか、着地点を決めればそれなりにうまくいきます。

個人間でも敵だと思っていたのが実は敵じゃないという、自分の視点、考え方の問題であると私は考えています。

敵が存在する時、人は団結する

では、なぜ敵を作り出す必要があるのでしょうか?

先程書いたように、大衆をプロパガンダを利用し意図した方向にコントロールして支持を集め、次の行動を取りやすくするためです。

イラク戦争で言えば、「イラクに米軍を派遣する為の正当化」がそれに当たります。

この時点で大衆の感情はイラクに対し、あるいはフセインに対して、敵視しながらもイラク国民を救えといったような義憤にかられています。

大衆には、全体的に、国民全体にひとつの「方向」、あるいは「目標」とか「的」が存在しています。

つまりここで「団結」が醸成されるのです。

違う言い方をすれば、大衆を団結させるためには敵を設定する必要があるということです。

企業でもライバル企業を敵と設定することで、組織の団結を図ります。

それと同じことです。

例えば、私の経験で恐縮ですがこういったことがありました。

従業員のモチベーションを上げるためにどうすれば良いか?といった課題だったのですが、その時は以下の様な言葉で対策をしていた企業も多くあったのです。

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「A社(ライバル)は、企業としてあるまじきことを行い消費者を騙している。

我が社の商品は本物だ。

このままA社が活躍するということは、多くの消費者が騙される上に、偽物が市場に横行することに他ならない。

我が社としても、市場としても社会としてもこういったことを見逃すわけにはいかない。

しかし、商品の性質故に、当局に通報したところで動かない。

我が社ができることは唯一つ。

「お客様に本物を知ってもらうことだ」

その為には、お客様に対するアプローチをこれまで以上に積極的に行い、A社の商品を市場から締め出すのだ。

それが、我が社はもちろんお客様、ひいては社会をより良いものにする近道である。」

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非常にそれっぽい綺麗事を並べ立て、ライバル社の商品を偽物扱いした上で、それを止めることが企業のCSRかのような、また、従業員に使命感をもたせるような物言いです。

正直なところ私は”よく言うよ”としか思わなかったことを憶えています。

しかし、従業員は基本的に素直ですのでこういったことを言える経営者は意外と従業員からの支持は厚いです。

結果としても、従業員は団結し一生懸命経営者の指示通り、業務に励みました。

敵を設定することで団結が生まれ、また同じコミュニティ同士の結束も固くなります。

よく「同じ志を持った人間を集める」と聞きますが、同じ志を持っている人間は基本的に、敵も同じか近いものがあるので、組織運営としては非常にまとめやすいのです。

その状態が”空気”を醸成し、排他的な同調圧力も同時に産んでしまいます。

それが、今日では鬱の原因ともなり、”イジメ”の原因にもなるのでしょう。もちろん全てではありませんが。

本当の敵はネガティブな意識と恐怖

ここまで書いた通り、結局のところ敵は作られ、設定され、実は虚像であるということです。

人を動かす立場にある者が施す手法でもあります。

しかし、人を動かす立場にある者はなぜそのような手法を用いなければならないのでしょうか。

基本的に、人を動かす立場の者は孤独となります。

その組織を維持しなければいけない実利的な目的や、国家間のようにいざとなれば法律など関係ないと、武力行使する連中を相手に日々を過ごすわけですから、そのストレスは凄まじいもののはずです。

そのストレスとは、”恐怖”と”ネガティブな意識”が源泉となり、それを解消しようとあらゆる手法を使用するのです。

しかし、この場合はまだ良い方で性善説に立った見方です。

現実には、単なる支配欲や、金銭欲などの自己欲求を実現するためにこのような手法が使われます。

信じてもらえない話をしますが、世の中のある一定の層には恐怖や良心を破壊するシステマティックな方法があります。

それは今日では”儀式”と呼ばれる方法で可能としています。

実に胡散臭い話に聞こえると思いますのでスルーで結構です。

ネガティブな意識と恐怖が、猜疑心となり、他人に責任を求めたり、安心したいがために敵を作り出してしまうのです

これは、実にややこしい話ではありますが、普通に考えれば誰でもわかるような話なのです。

自分の人生に一切の不安がないという状態とはどういった心理状態になるのでしょうか?

お金の心配もない、子どもはすくすく育っている、家族みんな仲が良い、近所付き合いも良い、仕事も順調など一般的な人の生活での心理状態なら基本的に不安は無いはずです。

しかし、ここで人間の愚かな一面が出てくるのです。

それが「欲、煩悩」というやつです。

ここまで豊かなら心も豊かになりそうなものですが、実は全くそうではなかったりします。

なんでも欲しがるから、「もっと良いものを」、「もっとお金を」、「もっと生活水準を」、などと比較対象が他人だったり、価値基準がお金の人間はこのような欲のドツボにはまるのです。

そうなると、「あいつよりも」とか「なんであの人ばっかり」となるのです。

そして自分の中に「敵」が作られます。

これが本当の「」の正体です。

まとめ

もちろん、理不尽に攻撃を受けた場合などは一瞬で敵と認識するのは当たり前のことです。

これまで話したことは、そういったことではなく、なんと言うべきか、ある種根源的な視点で書いています。

要は、「自分が敵と”認識”したら敵になる」ということです。

問題は、敵と認識する”背景”や”経緯”になります。

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