内閣は事実上解散しましたが、対する野党も増税致し方なしという、未だに財政破綻論に侵食されている雰囲気です。
財政破綻論、財政出動でハイパーインフレ論は全て虚構です。
これは、財政を拡大したくない財務省がばら撒いた、ブラックプロパガンダ即ち、
「事実を根拠としない」プロパガンダです。
そもそも、国の借金などという言葉もおかしく、正しくは政府の負債です。
このような正しい言葉があるのにも拘らず、あえて「国の借金」などという言葉を使っているのは、その言説が嘘であることを示していると言えます。
国の借金だとか、日本の借金だとか正しい言葉も使えない程、財務官僚はバカではありません。
彼らは何を言っても言い返せるほどの知識武装、理論武装をしています。その上で嘘と印象操作も織り交ぜてきます。
なぜ政治家は財務省の嘘と理解できないのか?
結論から言えば
「知らないか、知ってて財務省の言いなりになっている」
だと考えられます。
このブログでも何度もいわゆる国の借金問題の”問題点”をあげつらって来ましたがもう一度説明します。
財政健全化は既に達成されているのではないのか〜国の借金の嘘〜
我が国の政府債務(国債発行残高)は100%自国通貨建てです。
国債というのは日本政府に対する「債権」です。債務は日本政府が負っています。
100%自国通貨建てということは、国債を持っている人は国債を売る時”日本円で”支払われることを約束しています。
違う言い方をすれば、基本的にドルやポンドで支払いを受けられないということです。
日本円は我が国日本国でしか流通しておらずまた日本でしか使えません。
その日本円を発行(刷っているのではない。刷っているのは国立印刷局)しているのが「日本銀行」です。
日本銀行という銀行は民間銀行ではあるものの、日本政府が55%の株式を取得しています。
55%ということは、日本政府と日本銀行は親子の関係にある組織ということになります。
親会社子会社の関係では、互いの貸し借り(債権債務)は連結決算によって相殺されて0となります。
ということは、日本銀行の持つ国債(日本政府に対する債権)は互いに「貸し借り無し」ということになるのです。
したがって、量的緩和政策で日本銀行が市中の国債を買い取り、各銀行が日本銀行に持つ日銀当座預金残高を増やす形で日本円を発行するということは、政府の債務(国債)が「貨幣」になるということになるのです。
このことは財務省は絶対に国民に理解されたくないことです。
国債が貨幣になるのであれば、「国の借金ってお金になっちゃうの?」と考えられてしまうからです。
そこから出る答えはどんなに雑に考えたとしても、
「国の借金がお金になるんなら国の借金なんて気にする必要なんかないじゃないか」
となるでしょう。
インフレ率は気にするべきですが。
この国債の貨幣化は「国債のマネタイゼーション」と呼ばれているどこの国も行う量的緩和政策です。
結果、マネタリーベースが増加することになるのですが、この言葉を「財政ファイナンス」というネガティブなイメージの言葉に置き換え、肩書だけは凄そうな”権威のある”大学教授即ち「御用学者」に、
「財政ファイナンスは禁じ手」だとか、「そんなことをしたらハイパーインフレになる」とか寝言をのたまわせるのです。
国債は必ず、「戻る」ようになっています。
以下がその過程です。
1,政府が国債を発行する
2,国債を銀行が買い取ると民間銀行保有の日銀当座預金が政府保有の日銀当座預金に振り返られる
政府は国債を買った民間銀行の日銀当座預金から借りるので、政府の持つ日銀当座預金に振り返られる
3,政府は公共投資などを民間企業等に発注
4,民間企業は政府小切手で支払いを受ける(政府は民間企業に政府小切手で支払いをする)
5,民間企業は支払われた政府小切手を銀行に持ち込み取り立て依頼をかける
公共投資の発注を受けた民間企業は持ち込んだ政府小切手の金額だけ銀行預金に変えてもらう
6,銀行サイドはその持ち込まれた政府小切手相当額だけ日銀当座預金に振り替えられる(ここで当初国債を購入した分だけ戻ってくる)
1に”戻る”
したがって、いわゆる国の借金なんてものは国債発行残高がとんでもないといった資金制約はないのです。
国債の発行制約というのはインフレ率によって決まります。
つまり、国債発行残高というのはデフレである我が国においてはインフレ率が目標通りに上がった時の「結果」でしかないのです。
デフレを脱却するために適切な財政出動と金融政策をやって日銀の言うインフレターゲットを達成した時に国債発行残高がどうなっているかという「結果」でしかないということです。
国債発行残高を気にして増税等の緊縮財政をして結果インフレターゲットは達成できず、実質消費、実質賃金が下落していけば、新3本の矢どころか、経済で結果を出すとか全てが嘘でしたということになるのです。
というかもうなっています。
そして今回解散という運びになり、どうやら「増税選挙」になるといった空気が流れています。
これまで説明した国債発行と資金の流れは順に見ていけばそりゃそうだろうということにしかなりません。
それでも政治家は財政破綻論を常識化させるのは、知らないという可能性も大いにありますが、私が考えるに政治家は
「財務省を恐れている」
からだと思っています。
財務省の意に背くような主張をすれば財務省に嫌われると考えるでしょう。
財務省は国税を動かせますので、政治家自身の金の流れや政治資金などを調査されると政治家が考えたら、果たしてこのような主張ができるのでしょうか。
「財政破綻などしない」と政治家が言うことで、汚職事件が浮上し政治家生命を断たれる可能性を考えてしまうということです。
金の面で清廉潔白な政治家は恐らく限りなく少ないでしょう。
政治家に限らず民間も多かれ少なかれ何かやっているのです。
そこを突かれメディアで叩かれれば民間のように「しょうがない」とか「清濁併せ呑む」などとは言えない職業でもあるのでしょう。
メディアは政治家の贈収賄事件などを寄ってたかって叩くものですが、人のことを叩けるほどメディアは立派な存在ではありません。
むしろ反吐が出るほど害のある機関と言えます。
「国難」なのに解散?
総理は国難であるとしてそれを突破するために解散するとのことです。
ネットでは「お前が国難だ」とか言われているようですが、そもそも、国難なら解散してはならないと素直に思います。
北朝鮮の脅威がある中で解散、民進党は事実上解散、希望の党とかいう都政クラッシャーこと小池百合子が代表を務める抽象的なイメージのみの政策で「改革保守」と新自由主義路線になることが予想できる新党の登場ときたら、これまでの焼き直しになることは明白です。
国難を通り過ぎ「国瀕」、もう死にかけている状態に私には見えてきます。
最大の国難は「国民の無関心」だという人も多いです。
その通りではありますが、ここまでひどいと普通の感覚なら我が国の政治になんか期待しないと考えるのがある意味自然だとも思えてきます。
日本は”誠”を失った
我が国は戦後経済第一になり、また、科学万能主義に陥りました。
科学万能主義というものもこれは「唯物史観」に通じるイデオロギーだとも言えます。
科学は客観的だとか、公平とか言われますが数年経つと覆るようなモノが果たして客観的で公平なのでしょうか?
もちろん公平で客観的な科学的事象もあるでしょうが、例えば社会科学であるはずの経済学がこれほどまでに経世済民の役に立ってない事実はどう説明できるのでしょうか。
マスメディアも嘘をつき、政治家も嘘をつき、学者も嘘をつき、企業も嘘をつき、司法も嘘をつき、官僚も嘘ををつき、常に騙されているのは大衆、国民ですが何回騙されても気づかない国民もヤバすぎます。
一言で言えば、日本には「誠」がなくなっているのです。
この言葉を見ると新撰組を思い浮かべる人も多いでしょうが、この言葉は日本人にとって特別な感情を思い起こす言葉でもあります。
我が国は元来、天皇に対する忠義、主君に対する忠義や義理、親族に対する義理、共同体に属することで生まれる義理に基づく義務などを当然として考えてきた歴史があります。
それを果たせなければ「あいつは恥を知らない」とか「義理を欠いた」などと言われたものでしたが、この義理という義務は、非常に辛いものではあるものの、日本人最大の美徳であったと考えられます。
時に、義理と忠義が対立するということがあってもそれになんとか折り合いをつけて生きてきました。
赤穂事件などその典型だとも言えます。
しかし、現在の我が国を見ているとこの「誠」が為政者やエリート階級に全く感じられなくなりました。
というよりももしかすると、支配階級の考える「誠」と大衆の考える「誠」は全く違うのかもしれません。
支配階級が考える誠とは、「今だけ金だけ自分だけ」であって大衆の考える誠は「誠って何?」といったところでしょうか。
だとしたら、確実に我が国は国民が分断されています。
とは言うものの、誠という言葉に対し現在の日本人は”否定”まではしません。
個人主義という輸入された思想に染まりきってはまだないのです。
現在は恐らくギリギリのところに位置しているのでしょう。
まとめ
社会は誠を失っていますが、国民にはまだ残っているように思えます。
誠とは何か?誠実とは何か?義理、義務、忠義とは何かそれは日本人のDNAでしかわからないものです。
組織のコーポレートガバナンス理論とは根本的に違います。
全てとは言いませんがその美徳が存在するからこそ、2700年、我が国が継続して来たのでしょう。
これは先人の残した、偉大な日本人だけでなく人類の財産です。