世の中には「公式」、「非公式」という言葉があります。
「公式には~」「公式発表によると~」、や、胡散臭い政府発表をいわゆる「大本営発表」と言われたりもします。
しかし、政府の公式発表や、企業の不祥事による記者会見、教科書、などで確認できる情報は大抵の場合、疑問を残す内容になったり、出鱈目であったり、虚偽であったりと枚挙に暇がありません。
公式発表における目的とはこのように、基本的に真実はわからないように有耶無耶にし、自己の利益になるように行う情報操作と言える側面があるのです。
それは、公式発表に至る過程を考えれば自ずと理解できます。
この記事では、公式発表が信用できない理由と題してなぜ信用できないのか考えてみたいと思います。
公式と非公式の違い
「公式」とは一言で言えば、個人や組織がその見解に責任を持つか否かということになります。
企業や組織の公式発表を具体的に言えば、その組織の「総意」ということです。
「非公式」とは、逆に実はこう思っているなどの公式とは違う見解、自由な見解ということになります。非公式ですからここに責任は生じません。
だからこそ、公式発表というものはコンサルタントがいるくらい重要なことで、責任追及をされないよう言い回しに気を使い、自身の責任をうまいこと有耶無耶にするのです。
公式発表というものがある程度、社会に対し納得のいく説明、態度であれば追求されることもそれほどありませんが、ひどい態度や明らかな責任転嫁、言い逃れと受け取られると追求が始まるのです。
明らかにおかしい説明をしているにもかかわらずジャーナリストもメディアも一切追求せず、また報道されないというものは「闇」あるいは「タブー」となったりします。
また、それを作っているのは「空気」だったりもします。
公式とは真実ではないということ
結論から言えば、公式発表とは、
「真実ではない」
ということです。
少なくとも事実の一部のみ、関係各所の都合上、「発表できる範囲」のことを伝えるのが公式発表ということです。
なぜ、公式発表が真実ではないのか考えるとこれまた当然ではあります。
物事には360度の側面がありますが、そのどの部分を抽出するかは「自分達にとって不利益でないか」を基準に抽出し、公表されます。
仮にそうだとしたら、
「事実は伝えても、自分に不利益にならないような”真実”を伝えるようにする」
ことにインセンティブが働くことになるのです。
マスメディアの情報操作手法でも、あの手この手で視聴者に届けられています。
「一部を切り取る」といった手法だったり、「報道しない」という手法だったり、
”期待される”真実を伝えずに事実を伝え、自身や関係各所に不利益をもたらさないようにする公式発表はどのように形成されていくのでしょうか。
誰の利益を守るかに焦点が当たる
まず、「損害を拡げない」という利益、「関係者に損をさせない」という利益、そして「自分自身の責任を追求されない」という利益を守ることに焦点が当てられます。
自分自身というのは、企業や政府の組織においての代表者の立場にいるものが一般的です。
よく見る企業や役所の不祥事なんかでよく見るのが、どこから見ても組織的に行なわれている犯罪を、「個人が勝手にやったこと」として、事件の終結を図る
いわゆる、
「トカゲの尻尾切り」
です。
実際には組織的に行なわれている犯罪であったとしても、先程挙げた基準から、「組織を守るために」、「組織が受けるダメージを最小限に」と選択される方法なのです。
場合によっては尻尾切りにあった人間には見返りが裏で用意されている場合もあります。
また、見返りとはちょっと違いますが警察関係者の不祥事というものは最近はするようになりましたが、これまで警察官の名前は伏せられて報道されていました。
これは、警察組織と警察官個人の言わば取引を、記者クラブ制度が存在するために、明らかにできなかったのでしょう。
しかし、最近は警察組織の操作能力の低下や裏金問題、稲葉事件、警察官の殺人等、が表沙汰になり名前が出るようになってきたのです。
もういよいよという段階なのでしょう。
他にもあります。
絶対に名前を出してはいけない人がそこにいたりした場合や、事実を話すだけで関係各所の不利益になる場合などの時は大抵隠されます。
押尾学の事件やプチエンジェル事件、ペッパーランチ事件などが典型ではないでしょうか。
コレは私は秋元康のコメントと判断して考察する。”プチエンジェル事件”に秋元康が顧客リストに掲載されていたことが予測でき、同時に私に対しての脅迫でもある。
こういった事件の真相は絶対にわからないようになっています。
そこには国家権力や業界の権力が入り乱れており、証明することは不可能なのです。
まともな民主主義国家であれば、情報公開制度があるので一定期間が経過すれば公文書が公開されたり請求すれば読めるということになるのですが、我が国の場合、そういった制度は、日米合同委員会における情報公開制度が機能していないところから察するに、これまた機能していません。
資料、根拠が常に隠される
前段で少し触れましたが、公式発表で全ての資料や根拠が開示されることは極めて稀であると言えます。
なぜなら、自己の都合でそれらの資料や根拠を取捨選択しているはずだからです。
かと言って、これで全てと本人が言えば、無い事の証明はできないので「無い」と判断せざるを得なくなります。
それで後から、新しい資料が発見されたり暴かれたりして、「これらの真実は云々〜」となっていくのです。
前段でも触れましたが、我が国の場合は民主主義が成立していないので情報公開制度もろくに機能していません。
政府や自治体が公開したくないと言えば恣意的に公開できないようにすることができる以上、どうにもなりません。
だからこそ、真っ当なジャーナリズムが必要なのでしょう。
政府に守られ、記者クラブ制度によっかかるマスメディアはジャーナリズムではありませんし、むしろ害悪でしかありません。
しかし、そういった優れたジャーナリストは「消される」のが世の常ではありますが。
まとめ
簡単に書いてしまいましたが、大体のところで「公式発表」には嘘が多いということはご理解いただけたかと思います。
基本的に追求する方は「寸止め」ですし、される方は予め決まったシナリオ通りに小芝居をするだけです。
先日の森友学園問題など非常にわかりやすい事例だったかと思います。
佐川理財局長は証人喚問に召喚されたものの、誰が見ても虚偽の発言をしていると感じ、官僚は内閣人事局の顔色を伺いながら職務に当たっているだけであると。
そんな連中が日本国民のために働くかと言えばそうではありません。
証人喚問という制度も「証人の」公式発表です。
宣誓をしているので虚偽の答弁をしたら罰せられます。
ところが佐川理財局長は余裕で、正に堂々と嘘をつき、悪人魂を全国に披露したのでした。
この方も東京大学卒業のエリートです。
本当に「公式」のバカバカしさには呆れてしまいます。
だから私は、公式発表のみ、周知の事実のみを前提に議論することに意味がないと思うのです。
そんなことをしていたところで我が国は全く良くもならないし悪くなることを遅らせることすらできません。
実際にそうなっていませんか?
学者や政治家、官僚、企業エリートといった人間が詐欺師レベルの国なんですからあまり期待しないようにしてください。