あなたには勇気がありますか?
といきなりなんだという話ですが、私、最近になって「自分には勇気があるのだろうか?」と考えていました。
そもそも勇気とはなんだろうかとか、勇気のある人間はどういう人間なのか?とか色々です。
考えている中で日本全体に勇気って死語になってないか?
と思ったので、記事にしてみました。
この記事では”勇気とは何なのか?”と題して、我が国を考えてみたいと思います。
そもそも勇気とは?
一般的には「物事を恐れない心」、「勇ましい意気」と考えられています。
しかし、私はちょっとこの解釈では語弊があるような気がしています。
私の勇気の定義は、
「恐怖を乗り越え挑戦すること」
「勝てないと理解していても、自己が正しいと思うことを発言したり行動したりすること」
です。
一言で言えば、「自分が正しいと思ったことをする」ということです。
但し、それが公益に適っていることが前提です。
自分の利益は考えない前提で、個人的には損になることでも全体、公益を考えるといったことです。
これを聞いても中二病全開だと思う人は多いことでしょう。
「社会はそれが出来るほど甘くない」とか「大人というものは清濁併せ呑む度量が必要である」とか言われたりすることが多いです。
うるせぇなぁと私はいつも思っています。
社会の理不尽と闘おうともしない負け犬が大人ぶって知ったふうな口をきくなと、心からそう思っています。
私にこういったことを言う人達は「闘ったことすらない」人しかいません。
若いとか、青いとか、まるで自分は大人かのようにこちらをたしなめてきますが、私は諦めることが大人だとは思いません。
諦めることが大人だとしたら、それは社会に負ける、闘いもせずに逃げるということと同じです。
自分だけではどうにもならないから、逃げた自分を正当化するためにそれっぽいこと(家族のため、子どものため)を言って、納得した気になっているのです。
そんなことを言いながら最後には、何も考えなくなり、気付けば自分の利益のことしか考えない、子どもの時になりたくなかった大人になっていくのです。
私は子供のことを考えるのであれば、これから長い人生を生きていく子どもにダメな社会を残したくないと考えることが大人だと思っています。
子どものためとか家族のためというのは詭弁です。
よく聞くことですが大きな矛盾を抱えています。
だからこういった言う人間は、矛盾にすら気付かないほど、社会に毒されていると言えるのです。
よくよく考えてみてください。
例えば団塊の世代というのは、戦後焼跡の中から高度経済成長を経験し、バブル経済をも経験するという素晴らしい成功体験をしています。
ところがバブル崩壊後、デフレを20年以上も続いているということは、票を多く持つ世代が、自分のことしか考えずに投票したということになります。
86年ぐらいから生まれた人間は、成長を経験していません。
行うことは、新自由主義的な構造改革、それに関連したグローバリズム推進、レントシーカーによる派遣労働やFITなどの国民から巻き上げ企業への利益誘導となりました。
今でこそ、失業率は、少子化が長く続いたことで人手不足となり、改善されてはきましたが、”豊かさ”を感じられている人はどのくらいいるのでしょう。
もちろん個別に豊かさの意味は違いますが、デフレで豊かさを感じられるのは通常既に持っている人間だけです。
子どものためと言いながら、子どもの未来にはどうしようもない社会を残すという笑えないギャグみたいなことになっているのです。
”勇気”とは自分だけのために奮い起たせるものではありません。
現代で言う勇気とは、「リスクを取って起業した」とか「家族のために自分を殺す勇気」とかそのようなことのみに使われているような気がしています。
勇気は個人主義では成立しない
我が国は基本的には個人主義です。
先ほど、勇気は自分の為だけに奮い起つものではないと書きましたが、そうだとすると「自分が一番大事」、「自分さえ良ければ良い」という極端な個人主義では、勇気それ自体が存在しなくなります。
我が国でも同調圧力も当然ありますが、その同調が公益に反していて間違っている場合などいくらでもあるでしょうし、その際に、抗えるかということです。
この場合であれば、同調に屈することは、「面倒なことを避けたい」とか「出世のため」、「家族のため、生活の為」とか、色々と理由は見つかります。
このような選択をすることは、個人の利益と推測できます。
面倒なことを避けるとか、家族のために、抗わないというのは消極的利益と言えるでしょう。
出世のためイエスマンになることは積極的な利益となります。
個人が個人の利益を追い求めるために、理不尽な要求を呑むということが、勇気と言えますか?ということです。
我慢する、辛抱することだけが”強さ”とは言えず、それだけを強さと思うことは、”負け犬の遠吠え”あるいは”傷の舐め合い”であって、その認識を社会で合意しているに過ぎないと私は判断しています。
もっと言えば、それを”強さ”と思わせる洗脳が存在していると言えるかもしれません。
何故なら、そのように我慢や辛抱を受け入れる人間は、非常に「利用しやすいから」です。
前回に大衆の支配について記事を書きました。
統治者は”教育”という分野で大衆を洗脳できる地位にいるわけですから、大衆が、我慢、辛抱、理不尽に対する思考停止を”美徳”と判断するようにインプットできるのです。
他には経営者や人の上に立つ立場にある者も、大衆がこのような判断をすることで利益を得られます。
奴隷を「黙々と働く立派で強い人」と表現し、搾取を「マージン」、「手数料」などと言い換えることで、大衆に気付かせないようにするということです。
私が以下の記事で、支配項目に言葉を入れたのはこういう意味合いがあるからです。
自分と自分の周りさえ良ければ良いということであれば、それ以外の人はどうでも良いということになります。
そうだとしたら、必ず「奪い合い」が生じ、社会全体が徐々に弱肉強食となります。
そうなれば、社会では他人を奪う対象と判断する人も出てくるでしょうし、奪われる側は他人に対して猜疑心でいっぱいとならざるを得なくなります。
グローバリズム、新自由主義、新古典派経済学はこのような結果をもたらす可能性がありますし、現にそうなっているように私には見えます。
私はこのような社会が素晴らしい社会だとは到底思えません。
脱線しましたが、このような個人主義そのものが「勇気を殺す」結果になるのです。
少なくとも可能性はありますし、現実的だと私は理解しています。
個人主義は悪なのか?
個人主義を否定するとどうしても以下のような反論があります。
「お前は自分が大切じゃないのか?」
「人生はその人のものだ」
「偉そうなことを言っているが、お前はそんなに立派な人間なのか?」
「個人主義を否定するなら人間はどう生きるのが正しいんだ?」
私は個人主義を悪と断じているわけではありません。
私だって、自分のことは大切ですし、自分のことを考えることも多くあります。
個人主義は、「自分勝手」、「自己本位」、「協調性皆無」という極端な状態や、社会にそれが正しいことと吹聴することが悪だと言っているだけです。
企業でもそうです。
自分の給料が低い、残業代が支払われない、長時間労働、人間関係の悩みなど様々あるかと思いますが、自分の気に入らないことを全て周りに変えさせようとすることは無いはずです。
自分が変われば周りも変わるというのは、月並みな言葉ですが、個人のマインドを変えるだけで解決することも多々あります。
しかし、ここだけは譲れないとか、本来は誰にでもあるはずですが、その譲れないハードルがみるみるうちに下がって、意気地なしのレベルまで墜ちていくということが、企業でよく起こっていると私は思うのです。
ブラック企業問題が取り沙汰される昨今ですが、我慢しすぎ、辛抱しすぎることで経営者をつけあがらせる結果にもなります。
社員10人くらいの企業で従業員が7人ほど結託して、一番忙しい時期に
「残業代くれないなら仕事しませんわ」と従業員が経営者に言ったらどうなるでしょうか?
経営者にもよると思いますが、経営者が一番困るタイミングで交渉をすることでもしかすれば、おもしろい結果を得られることにもなるでしょう。
しかし、従業員同士が”結託”するには、ひとつの目的が必要になりますし、互いがリスクを取り運命共同体という立場を共有しなければなりません。
それが、個人主義では不可能レベルなのです。
個人主義においてブラック企業問題での従業員の選択は、辞めるか、我慢して働くかの選択肢しか見えてこなくなってしまいます。
労働組合があるじゃないかといった反論もありますが、組合がしっかり機能していればブラック企業問題など起こりません。
個人主義でもひとつの目的を共有することはできるという反論もありますが、それは、「内容とリスク」で共有出来る分野は限られてしまうのです。
ブラック企業問題で、従業員が自殺しても、問題になっていても、結局個人の自己責任という言葉で、終わってしまいます。
個人レベルでは、自己責任論も結構ですし、個人主義それ自体も別に否定はしません。
こういう奴なんだなで終了するからです。
ですが社会全体で個人主義が絶対的に正しいとされるいうのは、絶対に違います。
そもそも人はひとりで生きているわけではありません。
誰かが作ったものを食べたり、住んだり、使ったりするわけですから、互いに尊重し合うことが必要なのです。
デフレだから消費者が強い、インフレだから生産者が強いとか本来そんなことはどうでもいいのです。
インフレだろうがデフレだろうが、消費者も供給者も相手に感謝すれば良いのでしょうが、傲慢な人間は、使って”やって”いる、引き受けて”やって”いると捉え、相手の優位に立ちたがろうとします。
これが個人主義の弊害なのです。
最近では、Amazonのデリバリープロバイダという地域限定の配送業者、TMG、SBS即配などに対する、荷物が届かないことや指定日に届かない、連絡が取れないことなど消費者から不満が続出しているようです。
Amazonの利用者は”Amazonは便利”というように考えていたのでしょうが、その便利の要素には、
”指定した日時に届く”、”すぐ届く”が消費者心理の多くを占めていたはずです。
しかし、ここへ来て配送に不備が出始めたことで、Amazonの便利を担保していたのは、ヤマト運輸をはじめとする”配送業者の品質”であったと気付き始めているのでしょう。
もちろん実際に配送しているのはAmazonではなく、配送業者です。
Amazon側はこれまで配送料金を叩き続けてきました。
その上、Amazonや通販業者は”送料無料”を消費者に対して謳い、消費者のイメージに配送料、運賃は「無料」というイメージ付けをしてしまったことで、消費者が配送業者の仕事に対して、「ありがたみ」を感じなくなったんだと私には見えています。
現場を見てきた私にとっては、宅配ドライバーの仕事は過酷かつ劣悪に見えます。
あまりの厳しさにドライバーも定着せず、多くの荷物を持って配達することは意外と誰でも出来るものでもないのです。
ドライバーは低学歴の他に仕事ができない人というイメージが大半のように見えますが、私の知り合いの慶應卒のドライバーが佐川急便のドライバーとして働いており、話を聞いたところ、
「本当に難しい仕事」だと言っていました。
彼は金融や、企業コンサルティング、セールスなど様々な仕事をしてきたそうですが、そんな人でも難しい仕事と主張するのは非常に興味深いことです。
しかし、正社員ならまだ良いです。委託の個人事業主は奴隷にしか見えませんでした。
表沙汰になっておりませんが、老人で宅配ドライバーをしていた人が、配達中に車の中で、過労によって死亡することが一時期、頻発したのです。
どこの会社かは言えませんが、誰もが知っている企業です。
しかしこれは業界のタブーとなっています。
もちろん全ての理由ではありませんが、消費者は今一度”便利”に対しての見方、考え方を変えるタイミングではないかと思います。
人を活かして自分が生きる
私の父は、生前よく「人を活(生)かして自分が生きろ」とよく言っていました。
他人を尊重し、他人様に生かさせてもらっていると考え、自分も人を活かす、生かす、ということですが、ここには個人主義の傲慢な発想はありません。
謙虚であること、素直であること、、互いに感謝をすること基本的なこの”人間らしさ”が社会全体を今よりも良い方向に向かわせると私は感じます。
現実にそれが実践されていれば、現状のような社会にはなっていないでしょう。
個人主義を前提とする新自由主義、新古典派経済学、グローバリズム、これらは強者を更に強く、弱者をさらに弱くするためのイデオロギー、学問です。
もっと言えば、「強者の詭弁」です。
人を活かすことには、まず”自分はさておき”という発想が必要になります。
誰だって損はしたくありません。
相手のために損をする覚悟をすることはある種の勇気なんだろうと私は感じます。
少なくともある程度、精神が強くなければできないことです。
ですが、一時的に損をしても他人が喜び、それを見て自分も嬉しくなり、どこかでその行為は返ってきていると考えれば、多少でも、人は、強く、優しくなれるのではないかと最近思ってきました。
返ってこないと思うのも自由ですが、私は返ってきていることに気付いていない人が多いだけだと思っています。
人は、得をすることより、損をすることの方に意識が強く働きます。
プロスペクト理論というものですが、悪いことは気付きやすく、良いことは気付きにくいということがわかります。
まとめ
勇気について書いてみましたが、ちょっと議論がとっ散らかって恐縮です。
私は勇気のある人間になりたいと心から思っています。
でもあまり、勇気というものを考えてこなかったので書いてみました。
「義を見てせざるは勇なきなり」
私の好きな言葉です。