無知は恐怖を醸成する〜知らないことの罪〜

よく「無知は罪」と言われます。

しかし、一方では「無知は幸福」と言われたりもします。

どちらもメリット・デメリットあるようですが、私個人の考えでは「無知は罪」と考えています。

この記事では、なぜ「無知は罪なのか?」を考えてみたいと思います。

無知な人間は視野が狭くなる

無知であることはそれだけで、人生で損をしてしまいがちになります。

例えば、何かを選択する場合、事前の情報としてA、B、C、Dのうち、Aしか知らない場合と他のBCDも知っていた場合ではどうでしょうか?

それらを材料に何かを選択し、決定し、行動する時にどれほど”選択の幅”が変わるのかということです。

Aしか知らなければ、Aの情報のみを根拠として”選択”をしてしまうことになります。

もしBCDの情報を知っていればその選択はしなかったかもしれないということになるかもしれません。

ここで言う選択とは、生活の中にある無数の選択のことを指します。

何かを食べることもそうですし、スーツを選ぶこともそうです。

スーツの場合で言えば、今日どのスーツを来ていこうかなと思った時、「天気が雨」という情報を知っていればグレーのスーツは恐らく選ばないはずです。

グレイのスーツは水が付くと目立ってしまい、場合によってはまるで漏らしたかのように見えてしまいますし、また、雨の日にグレイのスーツを選ぶ不用意な人というレッテルを貼られることもあるでしょう。

他には、法律を知っているのと知らないのでは大きな差が出ます。

ある法律を知らないことで、例えば上司から指示されたことが実は犯罪である場合や、取引先からの不当な要求(犯罪)を呑まざるを得なくなったり、自分や自分の周りが苦しむことになったりもします。

逆にそれを知っていれば自分が不利益を被ることを避けられる場合もあるし、他の人を助けることが出来るかもしれません。

知る為の活動とは

「あの時これを知っていれば…」

と後悔しないようにする努力とも言えます。

どうやっても後悔するという反論もあるかと思いますが、だからと言って、何も知ろうとしない理由にはなりません。

後悔の度合いも違いますし、自分の成長を促してくれる後悔は有益です。

どっちにしても後悔するのであれば、役に立つように後悔しなければなりません。

無知であるとこのようにまず、「」をしてしまうことになります。

人は損をしたと認識すると、大抵の場合イライラしたりモヤモヤとした感情になります。

ところが、実はそのイライラもモヤモヤもその原因となった事実に囚われているだけで、視点を変えれば全く逆の感情が生まれたりもするのです。

つまり、「視野が狭くなっている状態」だということです。

視野が狭くならないためには、感情のコントロールが大切でもあるので、損をしてネガティブな感情を生み出さないようにし、そして”知ること”で視野を広げる為の努力をすれば視野は無限に広がっていくのです。

視野が狭いと人間は個人主義的になる

私にも経験があるのですが、イライラしたり怒ったりなどで視野が狭くなっている時には、

必ず「~のに」とか「あいつは~」などと人のことを非難したくなります。

人のことを非難したくなるときは、言葉が汚くなりがちです。

独り言でも、乱暴な言葉を使ったり、周りに当たり散らすような人もいるかと思います。

言霊という言葉の通り言葉には、エネルギーがあります。

言葉の力を甘く見てはいけない

言葉にエネルギーがあることに疑いを持っている人は、

「水は答えを知っている」

という本があるので参考までに読んでみてください。

まあ批判もないこともないので、自身で実験してみたり、ポジティブな言葉を発している時とそうでない時どちらが自分のパフォーマンスやマインドに影響するのかといったことを考えてみると良いと思います。

話を戻しますが、これは感情が自分の行動を抑えられないという状況ですが、視野が狭ければ、感情に関係なく自分本位の行動になっていきます。

視野が狭いというのは、「自分の物差し」しか持っていないという意味があります。

常に自分の物差しで物事を見ていれば、当然自分の基準で物事を判断するようになります。

そうだとしたら、相手の立場になって考えるとか、この立場だったら何が正解か?、自分より下の立場は自分を見てどう思うのか?とか、そういった自分を客観的に観ることをせず、また自分を省みなくなってしまうのです。

となれば、常に悪い意味での「自分という基準」が存在しているということで、個人主義的な発想にならざるを得なくなるのです。

このような過程であれば個人主義的になっても全くおかしくありません。

個人的な体験ではありますが、これまで会ってきた人達で、本を読まない、勉強をしないという人の多くが個人主義的なタイプでした。

でも考えてみればそりゃそうかと思いましたし、話も噛み合わないし結果私が孤立するといったことになってきましたね笑

個人主義的になった人間は短期的な快楽を追い求める

その個人主義的な人の共通点、傾向は「快楽」や「物質」を求めることです。

金、出世、性、ギャンブル、酒などです。

価値観という物差しが、物質的なものに偏ってしまっている状態と言えばわかりやすいでしょうか。

その上、我が国では、戦後の占領政策以来、義務教育の中で精神的な向上が発生しないようになっています。

感情論、精神論がここまで嫌悪されている現実はそこに起因しているのでしょう。

この個人主義といった価値観は輸入された価値観ですが、個の問題以上に他の人と共通の問題や事柄について考える事それ自体がなくなってしまう価値観が個人主義的価値観ということになります。

私はこの状態は、国民の分裂だと考えています。

仮に公を考え現状を良くしたいと考えても、自分を無力だと認めてしえば、人生の目的を狭い視野に限ろうとしてしまいます。

本当は現状を良くしたい、変えたいと考えていてもどうしても実現できないから、愛する妻、子ども、電化製品、マイホーム、車、旅行など一家の娯楽などのみを追い求め、これが「幸福である」と自分に言い聞かせある種認知的不協和的に行動してしまうようなのです。

そこには、一種の「諦め」のようなものも感じ取れます。

短期的な快楽を求める人間は”堕ちていく”

このように個人主義的に短期的な幸福や快楽を求めていくことで、何が起こるのかということですが、これは結局のところ、

元いた場所よりも居心地の悪いところへ堕ちていく

ということです。

実に不思議ですが、半ば諦めモードで現状維持やそこから逃げると現状は悪くなる一方なのです。

これは企業にも言えます。

企業はある程度大きくなると、こんなもんで良いかとばかりに成長することをやめようとする傾向があります。

すると、その企業は現状維持と認識しているものの、実は衰退していることに気付かないのです。

人も企業も大きく見れば「成長か衰退」しかないのです。

だとしたら、現状維持というのは悪魔の囁きにも似た、楽をするための堕落への一歩ということになります。

以前に、以下の記事で書きましたが、そこには書かなかったので、参考までに御覧ください。

逃げれば必ず堕ちていく

上記のブログの中で、人生は戦いだと割り切ることで少しは楽になると書きました。

書き忘れたことがありましたので今回の記事に書きます。

それは、「戦うことで人は成長し強くなる」ということです。

挑戦することは、自分の可能性を試す素晴らしいことです。

あなたも生まれた時、「無限の可能性がある」と言われたはずです。

しかし、社会は子どもを無限の可能性と言いつつも、社会が見えない力によってその無限の可能性を必ず潰そうとしてくれるのです。

正に「見えざる手」です。

それと戦うことで自己と公の現状を打破していく活動は必ず自分を成長させます。

このブログではそれら見えない力を私の能力の許す限りで書いています。

私もまだまだ勉強不足な点が多いので、出し切れていないものもありますが、今後も戦っていきたいと思います。

堕ちていく人間は”死ぬ直前に後悔する”

死ぬ前に後悔するリストというのがあります。

http://tabizine.jp/2015/04/18/35333/

色々あるので、探してみてください。

問題は、自分が堕ちていることに気付かないということです。

マンガ「カイジ」のキャラクターのトネガワが面白いことを言います。

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おまえらの甘え その最たるは 今口々にがなりたてたその質問だ 質問すれば 答えが返ってくるのが当たり前か?

なぜそんなふうに考える バカがっ!

とんでもない誤解だ

世間というものはとどのつまり 肝心なことは何一つ答えたりしない

住専問題における大蔵省 銀行 薬害問題における厚生省

連中はなにか肝心なことに答えてきたか 答えちゃいないだろうが

これは企業だから 省庁だからってことじゃなく 個人でもそうなのだ

大人は質問に答えたりしない それが基本だ

お前たちはその基本をはきちがえているから 今朽ち果てて こんな船(ところ)にいるのだ

無論中には答える大人もいる

しかしそれは答える側にとって都合のいい内容だからそうしているのであってそんなものを信用するってことはつまりのせられているってことだ

なぜそれがわからないなぜそのことに気づかない

そりゃあかまわない おまえらの質問に答えること

それ自体は容易い簡単だ

しかし、今オレがそんな話を仮にしたとしてもその真偽はどうする? 真偽などどうでもいいから聞きたいとい言うのか?

おまえらにはオレの話の裏をとる術はないオレが何を語ろうと 結局ただそれを盲目的に信じるしか道はない

つまり どんないい話を聞いてもそれは単なる気休めにしかすぎないってことだ

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といったものです。

実に本質を突いた言葉です。

非常に受け入れ難い現実ではありますが、実際そうだと思うことは実社会を生きていれば当たり前のように遭遇する現実です。

この解決策は「戦う」以外にあり得ません。

とは言え、死ぬ前に後悔しないためには死を意識しながら戦うことは、中々簡単なことではありません。

自分のできることからで良いのです。

それを継続することで強く、逞しいといった本当の意味で強い、元来我が国の武士が持っていた精神性を取り戻せるのではないかと思う今日このごろです。

まとめ

無知は恐怖を醸成するというタイトルで書いてきましたが、一読しただけではもしかしたらこの意味はわからないかもしれません。

無知であることはある意味で幸せですが、それは「」であることです。

そんな羊に限って、「狼」のフリをする人間も多くいることでしょう。

これこそ、井の中の蛙、「無知のなせるワザ」です。

無知が武器になるタイミングは、行動力が突出してある場合のみです。

起業なんてその最たるものです。

色々、知ってしまうことで行動が追いつかないということは起業を考えたことのある人はほとんど経験しているはずです。

だからこそ、知るとは行動が前提になるのです。

”知る”とは”する”ことが前提である〜知行合一の意味〜

誰か」が施す社会的条件付けに騙され、人は自分で決めているように自分では思っているものの、結局は何かの情報に操られ選択させられるという状態にならないようにしたいものです。

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