人間は誰でも自分がしていることが正しいと思いたいものです。
情報の不足や思い込み、環境、育ち、教育などでその人の正しい、間違っているが決まります。
しかし、本当に自分が間違っていると理解しても態度や考えを改められないということもよくあることです。
それが認知的不協和というものですが、その認知的不協和が社会を良い方法に導けないひとつの理由なのかと最近思うようになりました。
この記事では、”常に正しいことはない”と題して、自分を見つめ直して、それまで気づかなかったことに気付くためのきっかけになればと思っております。
”正しい”は誰が決めるのか?
先程も書きましたが、自己が思う”正しい”の判断は、環境、育ち、教育などでほぼ決まっていきます。
そうそう私生活の中で、当たり前に正しいと思っていることに”なぜ?”とは問いかけません。
しかし、なんで正しいことを”みんな”がしている”はず”なのに
世の中が良くならないのでしょうか。
それは、「自分が正しいと思っている人間」が多いからです。
正しいと思っている人間がぶつかり合って、物事が決まることを、話し合いとか合議制とか民主主義とか言ったりします。
ですが、その正しいと思っている人達というのは、この社会で生まれ、育っています。
個人差ももちろんありますが、大きな視点から見れば基本的に日本という国内で生まれ育ちます。
この日本国内に”一定の正しい”とされる概念が共有されています。
その一定の正しいは誰に教わったのでしょうか?
自分に教えた人は、誰かに教わっているはずです。
その誰かも、他の誰かに、あるいは何かに教わっているはずです。
その正しいを流布する存在が政府であり、義務教育であるとも言えます。
極論ですが例えば、義務教育で誰かのものを盗むことは良いことと教えられれば、みんながそれを正しいと思い込みます。
その時点では、人の物を盗むのは善なのです。
もっと言えば、海は人間の涙で出来ましたとか義務教育で教えられれば、それは正しいとなるわけです。
海や森、川だって大自然と私たちは思い込んでいますが、義務教育で実は森ではなく雑草ですとか、実は川は地震でできた亀裂に水が流れただけとか、言われたらそういうものなんだと納得するでしょう。
ここまでくるとSFっぽくなりますが、昔のSFなんか見ると、現在の世界がそのSFに近くなっていると感じてしまいます。
きっとドラえもんも誕生するでしょう。
このように”正しいこと”を流布する存在がいるのです。
この話を聞いても、意味がわからないとか、何を言ってるのかさっぱりという方も多いでしょう。
お気付きかもしれませんが、「道徳」や「宗教」がそれに当たります。
日本人は無宗教という風に考えている日本人も多いようですが、我が国場合、敗戦がそのような認識を与えただけです。
もっと言えば、戦後GHQの洗脳工作によって日本人と宗教を切り離したということです。
まあ普通に考えれば、日本中どこに行っても神社とお寺があり、その数も相当なものですので、いかに敗戦以前の日本人が神仏と共に生きてきたかわかるはずです。
お寺は概ね75000ということです。
我が国は道徳と宗教が切り離されて考えられていますが、外国人からすると異様だそうです。
海外では道徳というのは宗教が教えるというので、日本人が道徳のことを話すと、
「それって宗教じゃないか」と思うようです。
私も無宗教を公言する人と会ったことはありますが、普通に”いただきます”とか言ってたし、普通に法事行くから云々とか言ってましたので、正確には無宗教ではなく、”無宗教だと思わされている”かあるいは、”神仏と共に生きている”ことに気付いていないということなのだと私は思いました。
未だに私は「罰が当たるから」という理由で出来ないことが多くあります。
しかし、この「罰が当たるから」は意外と若い方々の間で共有されているようです。
我が国は戦後、敗戦により誇りを失い”物質主義”的になりました。
少し脱線しましたが、このように日本人の”正しいこと”が、GHQによって”変えられたのです。
先ほど、物を盗むことが善云々の話をしましたが、ここで話していることを実践した人達もいるのです。
チベット密教では「秘密集会タントラ」というものがあったようです。
秘密集会タントラとは、常人には理解できないこと、人によっては気分の悪いことなのでご自分でお調べいただければと思います。
要は一般社会で善とされていることの逆を徹底的に行うと言えばわかりやすいでしょうが、非常に気分の悪いものなのでお調べになる際はお気をつけください。
自分の良心が正しいを決める
最近のイシューで例えれば、テロ等準備法案いわゆる共謀罪の議論で確認できました。
当法案に反対する人達の意見は概ね以下のようなものでした。
「組織的と言っても法案が曖昧で恣意的に逮捕される恐れがある」
「権力の監視が強まりプライバシー権がないがしろにされる」
「当法案の成立でなし崩し的に権力による監視が強まり、人権も何もなくなる」
といったものでした。
一方の賛成派の意見は以下の様なものです。
「組織に対する法案だから個人は関係ない」
「グローバル化が進めばこのような法整備は必要である」
「反対派はテロでも起こすつもりなのか?」
といったものです。
反対派はサヨク系で賛成派は保守系といった様子でしたが、いくつか気付いたことがありました。
反対派の意見の前提は「政府は悪」という意識があり、賛成派は普通に生きていれば関係ないと「政府は善、あるいは善でも悪でもない」という前提に議論していたことです。
恐らく議論されている方々はこのことには気付いておられないように思います。
日本的サヨクは元来「政府は悪いことをする、暴走する」前提で政治を語ります。我が国に特殊の事情があるアカといった雰囲気です。
彼らにとっては、「政府は悪」であることが”正しい”となります。
一方の保守系の人達は、以下の記事で書いた通り単なる「反左翼」という傾向が強く見えます。
基本的に反左翼でしかないので、脳内お花畑の連中を叩いていればそれは我が国では”保守”ということになり、むしろ保守にとってはそれが”正しい”となるのです。
我が国の保守が単なる反左翼だからこそ、「構造改革」とか「抜本的改革」とか「グレート・リセット」とか革新的な行いに賛同できるのです。
改革というのは、それまであったものを”変える”ことですから、それを”保守”が進めるといった奇妙な状態になっているのです。
これを見て笑っているのは恐らく、洗脳工作を施した米国でしょう。
何が言いたいのかというと、このテロ等準備罪の本当に見逃すべきではない部分は、どちらが正しいと言うのではなく「テロ等準備罪の成立の背景」であるということです。
サヨク層の言う、例えば山本太郎議員の以下の動画での主張はそれなりに説得力はあるのです。
とは言え、”監視が強まる”ことや”国民の自由”がなくなることは、そもそも「グローバリズム」の特徴ですから私から言わせれば皆さんがそうしてきたんでしょう?と。
私はよくグローバリズムを批判していますが、これですら常に悪ということはありません。
我が国が発展途上国であれば、グローバリズムを進めることで国民の所得が増えるということになるので賛成した部分はあるでしょう。
また、我が国がインフレーションという状態であればグローバリズム的な政策の何かには賛同します。
私がグローバリズムに反対しているのは、我が国がデフレであり、発展途上国でもなく、日本国に伝統もあるからです。
私の良心、良識では”前提が変われば結論も変わる”という、これが正しいということになるのです。
テロ等準備罪についても、本来であれば無くて良いと思っていますが、ここまでグローバル化が進んでしまった以上、受け入れざるを得ないという状態でもあります。
グローバリズムを進めていなければ、必要のない法案であることは間違いありません。
サヨク層にとっては反対が正しい。
保守層にとっては賛成が正しい。
しかし、本当にあなたの良心で決めているのですか?という疑問を投げかけたくなるほどの、不真面目さというか鈍さというのがあるように私には観えるのです。
まとめ
常に正しいことはありません。
正しいこととは、タイミングや状況など主に外部的要因によって変わっていくものです。
前提や背景、状況が変わっても”目的を達成するための正しいこと”が変わらないというのは、
「バカのひとつ覚え」というものです。
そんなことを日本中で行ってきたのです。
改革が足りないからだ、規制が多すぎるからだ、これからはグローバリズムの時代だからだと。
政治家や企業に真面目に考えろといったところで無理です。
本当に無理だと感じました。
彼らの頭の中には”利益”しかありません。
骨のある政治家かと思っても、いつか必ず裏切ります。
という裏切らなきゃ自分が死ぬとなれば大抵の人は裏切るでしょう。
と、正しいことは”常に歪んで”いきますので、正しいことを真剣に考えていきたいですね。